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塩田と塩盗人

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 宮洲屋幸吉の塩田が、この後どのように経営されたのか、それを示す史料はない。しかし、文政年間(一八一八年~二九年)と思われる史料に「東豊井村弥吉尋問口述書」がある。この問答の中に、当時の宮洲屋の繁栄ぶりと、それをねたんで盗みの手伝いをした村民弥吉の気持ちがよく出ている。この史料は徳山藩府奉行所の役人が、弥吉を尋問したときの一件記録である。問を発するのは取調べの徳山藩役人であり、答えるのは盗人手伝人弥吉である。少し長いが、その尋問を記録する(記載にさいし、原本の内容を損わない範囲で現代文に改めた)。

東豊井村弥吉エ御尋ニ付答口上書

  東豊井村弥吉尋問口述書
問 その方は今年何歳になり、家族は何人か。
答 私は二十九歳で、家族は三人です。商買は小船に乗り小商いをしております。
問 先月十五日夜、二軒屋の清吉と申す者へ船を貸したのはどういう理由か、正直に申し述べよ。
答 恐れ入ります。清吉が私に「宮洲屋の川まで船で行きたいので、お前の船を貸してくれ」というので、懇意な仲ですから何とも思わず貸すことにしました。もっとも、宮洲屋の川まで船でいっしょに行ってくれというので同乗しました。到着すると、清吉は「少し待っていてくれ」といって陸へ上りました。私が船で待っていますと、清吉は塩を一荷ほど持ち帰りました。私は不審に思い「その塩はどうしたのか」とききますと、「とにかく乗せてくれ」ということで船に乗り込みました。すると宮洲屋の手代二人が走って来て、私の船へ飛び乗り塩を差し押えました。そのとき、清吉は川へ飛び込んで逃げました。手代二人は私へ、「いま塩を盗んで川へ飛び込み逃げた奴は誰か」とききますので、「二軒屋の清吉です」と答えました。手代から、船を宮洲屋の前へ着けるよう指示されましたのでそうしました。船が着きますと、宮洲屋の別の手代三人がやって来て、「今夜浜の塩を盗んで船に積んだのはどういうわけか。他に誰かいるのか」ときかれました。私は「二軒屋の清吉から船を貸してくれと頼まれ、別に何とも思わず貸しますと、清吉は陸に上って塩を運び、その塩が差し押えられると、川へ飛び込んで逃げました。私は船を貸しただけですから、その他のことは何も分りません。どうか船だけは今夜返して下さい」と頼みました。しかし「清吉を連れて来たら船を返してやる。それまでは船を預る」ということで、「帰ってよい」といわれたので、船を置いたまま家へ帰りました。
問 清吉は十五日夜逃出し、その後いつごろ家に立ち戻ったのか。
答 二、三日して、清吉が家に帰ったとききましたので、さっそく清吉方へ行き「お前に船を貸したばかりに、船を宮洲屋へ預けることになった。これでは商売は上ったりで、家族は食って行けぬ。どうしてくれるのだ」となじりますと、「それは気の毒なことをした。お前の家族の面倒は私がみる。船は取り戻してやるから心配するな」というばかりで、らちがあきません。私は、「お前を宮洲屋へ連れて行けば、船は返してもらえるのだから、これからいっしょに行こう」といいましたが、そのことはすぐには実現しませんでした。二十四、五日ごろになり、ようやく彼も決心して、二人で宮洲屋へ行きました。宮洲屋では番頭衆が清吉を取り調べ、「浜の塩を夜間に運ぶということは、どのようなわけがあるかいってみろ。盗賊といわれても申し開きはできないぞ」と申されました。清吉は「おっしゃるように、夜に塩を運んで取り押えられたことは、盗賊といわれても仕方がありません。でも、これにはわけがあることです。実は、私には浜庄屋へ肴代の貸し金があります。私は同人へその金の返済方を催促いたしましたが、なかなか払ってくれません。私も貧乏しているものですから、強く催促しますと、浜庄屋がいうには『宮洲屋へ知れないように、夜中に船で塩を運んでくれ。その塩を肴代にしようではないか』と申します。そのため私は弥吉に頼み、船を借りて塩を運んだのでございます。どうかお憐愍をもって、内々にして下さいますようにお願い申します。なお、今度のことについては、弥吉には何の罪もありません」と申しました。私も「お聞きのとおりでございますので、どうか私の船をお返し下さい」と頼みました。しかし番頭衆は、「まだ取調べは半分終ったところだ。途中で返すわけにはまいらぬ」とのことで、船はそのままにして家に帰りました。
問 その方は、清吉と常日ごろから親しく付き合っておる。例え頼まれたとはいえ、夜間に船を貸し、清吉が塩を持ち運ぶという不審な行為を止めようともせず、しかも塩の船積みの手伝いをしている。このようなことについて、どのようなお咎めを受けても申し開きはできないと思うがどうか。
答 いかなるお咎めを受けましても、異議はございません。恐れ入ります。
(徳山毛利家文書「東豊井村畔頭兼田友右衛門組弥吉江御尋ニ付答口上書」)
 この長い「尋問口述書」を要約すると、つぎのようになる。
(一) 先月十五日夜、弥吉(小船持ち)は友人の清吉に頼まれて船に乗せ、夜間船を宮洲屋塩田の塩蔵近くに繫留する。
(二) 清吉は陸に上り塩一荷を持ち帰るが、宮洲屋の手代に追われ海に飛び込み逃げる。
(三) 弥吉は宮洲屋に連行されて取調べを受けるが、無実を主張する。この取調べの結果、清吉を連れて来れば返すという条件で帰宅が許される。しかし、船は証拠物として宮洲屋が保留する。
(四) 弥吉は清吉に宮洲屋へ同道しようというが清吉はすぐは承知せず、十日近くたって二人は宮洲屋へ出頭する。
(五) 清吉は塩を盗んだことについて、自分は浜庄屋へ貸金があり、その代金として浜庄屋の指示で塩を持ち出したので、弥吉は何も知らず罪はないという。

 以上が弥吉口述書の要約である。徳山藩取調役人が最後に指摘しているように、親しい友人の頼みとはいえ、弥吉が夜間塩蔵の近くに船を着けたことは、盗人幇助罪とみなされても仕方がないであろう。
 この口述書から、一八一八年~二九年(文政期ごろ)の東豊井村の社会構成を知ることができる。すなわち、宮洲屋は塩田地主=塩問屋として手広な経営をしていたのである。屋敷は川に面して建てられ、番頭や手代などかなりの使用人を雇用している。塩田には、浜庄屋や浜子が働いていた。
 一方、弥吉は小船を持っていることから、漁師か、または船持ち商人(笠戸島へ行商)と考えられる。被疑者の清吉は、浜庄屋へ魚を売っていることから、きっと魚屋であろう。二人とも、平素はまじめな人物だったのではなかろうか。この二人が盗賊行為に走る原因は、浜庄屋が魚屋清吉から借金したことのため、塩蔵の塩を盗めと示唆したことによる。
 浜庄屋とはどのような身分であったのか。塩田には多くの浜子がおり、これを統率するのが浜庄屋であろう。ではなぜ浜庄屋がこのような塩盗みを示唆したのであろうか。右の口述書の範囲では、実際に浜庄屋がこのようなことをいったかどうかは分からない。ただ考えられることは、浜庄屋も生活が苦しく、冗談としていったかも知れないということである。しかし、弥吉と清吉は塩盗みを決行し、宮洲屋の手代が弥吉を現行犯で逮捕したのである。このように、当時の東豊井村では宮洲屋のような塩田地主と、弥吉や清吉のような貧しい漁師や魚屋が共存していたのである。
 では、この事件はどのような結末になったかということは、判決文が残されていないので不明である。しかしながら、弥吉が藩府の取り調べを受けていることから分るように、宮洲屋が浜庄屋・弥吉・清吉の三人を徳山藩府へ告訴し、三人ともに処罰されたと考えられる。中でも清吉は主謀者であることから、きっと重く罰せられたに違いない。
 以上みてきたように、東豊井村で一揆が発生する以前の村は、一方には豊み栄えた塩田地主と、一方には貧しい多くの村民が暮らしていたのである。このような村の情勢の中で、一八三〇年(天保元)に一揆が発生する。