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東豊井村の一揆

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 長州藩では多くの一揆が発生しているが、これらの一揆については「風聞書」といって、一揆の概要を書きとめたものが残されている。しかし、豊井村の一揆については、「風聞書」のようなものは残されてはいない。この一揆については、徳山藩府が一揆参加者を取り調べた「尋問書」と、処罰者に下した「判決書」が残されているだけである。したがって、この二つの史料から、この一揆の実態をみることにしよう。
 まず、一揆の尋問書をみることにする。
  東豊井村両組百姓へ対する尋問書
問 その方どもは当年何歳か。家族は何人か。家屋敷を所持しているか。職業と氏名を述べよ。さらに、九月三日夜宮ノ洲煮干小屋での行為、その後庄屋方での行動、次に六日夜正立寺へ集合して行った連判状、七日逮捕者連行時の行為について、ありのままをはっきりと申すように。これらの事件は違法であるから、偽りを申せば処罰する。真実のみ申し述べよ。
 東豊井村市右衛門組 藤四郎
答 私は当年二十歳になります。家族は母と私の二人で、家屋敷を持っております。職業は百姓です。九月三日の夜は、「煮干小屋を打毀しに行こう」と亀松からさそわれました。そこで藤蔵といっしょに行き、打毀しの手伝いをしました。その後正立寺に村中が集合したときは、私も参加して爪印を押しました。六日に庄屋宅へ村中が集ったときは、私もみなといっしょに行きました。これ以外には何もしておりません。悪いことをしたのですから、どのような処罰も受けるつもりです。恐れ入ります。

 右の問は、徳山藩府の取調役人が発したものであり、答は被疑者である藤四郎の答えたものである。
 取調べの要点はつぎの三点であった。
  (一) 九月三日夜、宮洲煮干小屋で何をしたか。
  (二) 九月六日夜、正立寺に集合し何をしたか。
  (三) 九月七日、どこで何をしたか。
 この三点が、東豊井村一揆の具体的な内容である。この尋問に対し、青年藤四郎はつぎのように答えている。
  (一) 九月三日夜は亀松にさそわれ、藤蔵とともに煮干小屋の打毀しの手伝いをした。
  (二) 九月六日夜は正立寺へ集合し、爪印を押す。
  (三) 九月七日は庄屋宅へ行く。

 この藤四郎の口述は、彼が今回の一揆を構成する三つの事件のすべてに参加していることを物語っている。彼が煮干小屋で「打毀しの手伝いをした」といっても、手伝いといういいまわしは、彼の罪を軽くするためのいい逃れかもしれぬ。彼は、一揆のすべての事件に参加したことを認めているのである。
 このような「尋問書」が、一八四人分残されている。これらの中から、六三歳になる老人庄七の口述書を紹介する。

東豊井村百姓中エ御尋ニ付口上書

  東豊井村市右衛門組 庄七
答 私は当年六十三歳になります。家族は夫婦だけです。宮洲屋の貸家を借りており、百姓でございます。宮洲煮干小屋を打毀しのときは、触廻りの者が「原の者はすぐ出ろ」と申しましたが、私は煮干小屋を打毀すことを知っていましたので出ませんでした。正立寺へ集会のときは、私は組の者五人と申し合せ、参加せずに家で寝ていました。すると谷助等四、五人がやってきて、「なぜ正立寺へ来なかったのか、連判状にお前の印がない、印を押せ」と申しますので、「私は字が書けないうえ、家には筆も墨もない」と答えました。すると谷助が「村中の者が印を押したのに、お前の印がないと他の者に迷惑がかかる。今後みんなからうらまれてもよいのか」と申します。私は後難の恐れがあるように感じましたので、「それではお前達で勝手に私の印を押してくれ」と申しました。その後どうなったかは知りません。古川土手集合のときは忠助がやってきて、「太鼓が鳴ったら集るように」といいました。昼過ぎに太鼓が鳴り、恋カ浜から多人数がやってきて、「原の者は出てこないのか」と口々に呼びました。私どもは「何事ですか」とききますと「何事ときくほどのことではない」とのことでした。そのようなわけで、皆に付いて行きました。不調法なことを致しましたので、どのようなお咎めでもお受けします。恐れ入りました。
 老人庄七の口述は、さすがに歳をとっているだけ老獪な口ぶりである。彼は、三つの事件について、①九月三日夜の煮干小屋打毀しには不参加。②九月六日夜正立寺集合には不参加であったが、後に強制されて印を押す。③九月七日は古川土手に集合し、庄屋宅まで行った、と述べている。

現在の正立寺

 庄七は、三つの事件のうち参加を認めているのは、七日の庄屋宅強訴だけである。庄七は、当初の二つの事件への参加は全面的に否定しているが、証拠の残っている押印は、後に強制されて押したという。この口述が真実かどうかは分からないが、先にみた青年藤四郎と比較すると、罪を逃れようとする庄七のずるさがよく出ている。