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処罰の決定

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 一八三一年(天保二)十一月二十七日、逮捕者全員に対して判決が下された。判決では死罪とされた者はなく、最も重い罪が野島への流罪であった。この最重罪を課せられた音七への判決書は、つぎのとおりである。
   覚
    東豊井村畔頭茂兵衛組 音七
右の者は天保元年九月三日、宮ノ洲煮干小屋打毀しの発頭人である。本人はこの日半上河原において篝火(かがりび)をたいて多人数を集めたが、それは篝火を相図に人を集めるよう六次郎に指示していたからである。このあと、庄屋からの呼出しを受けたが出頭せず、そのうえ、他の者の出頭も妨害した。六日夜の正立寺での連判状作成については、不参加者の押印をとるため村中をかけ廻ったとのことである。さらに七日検挙者逮捕のときは、多人数を集合させたうえ、歎願があると称して古川土手で騒ぎ立てた。これらのことは藩府取調べの結果、本人が白状したところである。このような事件を起したのは、百姓としての本分を忘れた行為で、まったく道理のない所業である。もしも改善してほしい事柄があるなら、その理由を書き述べた書状を作成し、庄屋をとおして藩府へ上申しなければならぬ。そのような正当な手続きをせず、自分の勝手な考えで今度のような事件を起すことは、法に背く悪行である。このため、野島への流罪を申し付ける。
                     (徳山毛利家文書「大令録」57)
 この判決書で、音七は宮ノ洲煮干小屋打毀し騒動の発頭人として、徳山藩府から断罪されている。その罪状は、つぎのようにまとめられる。
(一) 宮洲煮干小屋打毀しの時、篝火をたいて多人数を集めたこと(第一事件)。
(二) 庄屋からの主謀者調査のための呼出しに出頭しなかった。そのうえ、連判状作成のさい、未参加者に押印を強要したこと(第二事件)。
(三) 検挙者逮捕のとき、古川土手で騒ぎ立てたこと(第三事件)。

 右のような罪状によって、主謀者音七は野島へ流罪となった。彼が主謀者と断定された理由は、第一事件である煮干小屋打毀しにおいて、彼が篝火をたいて人を集めたからである。この一揆の発端となる事件で、篝火をたき多人数を集めるという行為が、もっとも重要で決定的な悪事であると藩府は認定したのである。
 しかしこの判決文のなかで、藩府へ不満があるなら正規のルートを通じて上申せよ、と藩府は述べている。ところが音七はそのようなことをせず、非合法的な実力行使に訴えたことが、法に背くとして断罪されたのである。