これまでみてきたように、この一揆は宮ノ洲煮干小屋の打毀しから始まっている。ではなぜこの煮干小屋は、打ち毀されなければならぬほど、村民の怨みを買っていたのであろうか。このことを示す的確な史料は残されていない。しかし、考えられることが一つある。それは、この煮干小屋は、宮洲屋の塩田の傍にあったことである。
逮捕者の一人である喜八に対する尋問書によると、煮干小屋打毀しの三日前、喜八等一一人が道作りのためその傍を通ったとき、誰いうともなく「この小屋の煮干の作り方はよくない。こんな煮干場は打ち毀した方がよい」と全員で話したという。しかし、煮干の作り方が悪いからといって、小屋全体を打ち毀すことは、少々話が飛躍しすぎる。煮干小屋を打ち毀すためには、小屋がある附近の景観を考えてみる必要があるだろう。
きっと喜八等の少年時代は、そこは遠浅の干潟であり、波打ち際のそばは緑の松原であったろう。その松原の一隅に煮干場があった。松原や干潟で子供たちは遊んだであろうし、煮干場の煮干魚をつまみ食いしたこともあったに違いない。この宮ノ洲の浜は、ここ三〇年の間に大きく変貌した。緑の松原が開発され、干潟は埋めたてられて塩田が造成されたのである。いつの間にか、村人の共通の広場であった砂浜は姿を消し、そこには村一番の富裕者となった宮洲屋の塩田があった。
この塩田の一角に煮干小屋があった。塩田に入れば盗人あつかいで、宮洲屋の手代たちから追い出されるであろう。しかし、煮干小屋のある煮干場には誰でも入ることができる。したがって、煮干場に集って煮干小屋を打ち毀せば、宮洲屋に恐怖感を与えることになろう。本来なら、宮洲屋を打ち毀したいところであるが、せめてもの思いをこめ、煮干小屋を打ち毀して平素の怨みをはらしたのではなかろうか。宮洲屋に対する村民の怨念が、煮干小屋打ち毀しとなって沸騰したと考えられる。