現在の長尾道(生野屋地区)
この事件は突然に発生したが、事件そのものは起るべきことが予想された事件であった。なぜなら、事件の背後には本藩領である末武三カ村と、徳山藩領である生野屋・瀬戸村・譲羽村との間に、入会山をめぐる古くからの利害の対立があったからである。
もともと本藩領の末武三カ村は、下松平野にあり、山林を村内に持たぬ平地の村であった(笠戸島は末武下松に属すが、全島本藩の御立山=藩直轄山=である)。このため、農民が農業経営に必要な飼料・肥料や屋根葺に当てる草木類は、村内にそのような需用にあてる採草地はなかったのである。そこで、瀬戸村のなかにある草木山を入会山として使用することが、古くから慣習として公認されていた。このような末武三カ村と、生野屋村など三カ村が同一支配内であったら、事件は発生しなかったかも知れない。しかし先に述べたように、末武三カ村は本藩領であり、生野屋村など三カ村は徳山藩領であった。
本藩は支藩に対し、本藩としての格式と権威をもって接する。この点は藩と藩との関係だけでなく、一般農民の間にも影響を与えていた。本藩農民は支藩農民に対し、いつとはなしに権威がましい態度をとることになり、支藩農民の反感をまねいていた。こうして、本藩農民対支藩農民という対立的要素が形成されていた。
さらにいま一つ、山村対平地村という立地上からの構造的な対立があった。この時代になると、平地の農村では綿・菜種など商品作物を生産し、綿織物なども普及しており、生活に多少の余裕も生じていた。これにひきかえ、山村農民の生活は旧態のままで変化がなく、家計も苦しかった。したがって、山村農民は平地農民に対し、潜在的に羨望と妬みを内蔵していた。
入会山は、もともと一村内に置くことが原則である。しかし山のない村もあり、他村に入会山をもつことも例外的には認められていた。しかし、末武村のように他藩領内に入会山があるということは、例外中の例外といってよいだろう。徳山藩領の山から、本藩領の農民が草木を刈り取ることを、これまで慣習として認めてきていた支藩農民も、「いつかはこの悪習の廃止を」と考えていたに違いない。それは草木の需要が高まり、盗み刈りが多発したこの時点で、本件のように爆発したのであった。
この事件は、たちまち双方の村々に知れ渡った。翌三月二十日、生野屋村の農民が花岡市で松枝売りをしていると、先に生野屋村で鎌を押収された末武の農民が現れ、「ここで松枝を売ることは許されていない」といって松枝三荷を押収したのである。先日敗けた末武農民が、ここで仇をうったのである。