右の事件が発生すると、生野屋村の畔頭弘中弥助は、さっそく花岡町の畔頭中村善右衛門宅へ抗議に行き、両者間で和解に向けての協議を行った。そのため、末武村畔頭中村善右衛門の名で「内済申入書」を作成し、それを弘中宛に手渡して、一件落着との示談が成立した。
しかし事態の根は深く、本藩と支藩の利害が対立しているため、右のような表面的な解決では事態は終結しなかった。六月に入ると、生野屋村の村役人が徳山藩の山廻り役人に事件を訴えたことから、内済事件で済むことではなく、本藩と徳山藩の公的事件へと発展することになった。
同年七月二日、徳山藩の山廻り役与兵衛は、生野屋村の頭百姓三人と地下役一同(庄屋・畔頭)を引き連れ、末武農民が同村の長尾道を通行する実態を調査した。当日末武村からは馬二疋、かつぎ荷一荷が入山のため通行した。この一行を呼びとめ調べたところ、花岡町の伝蔵は無札(通行証不携行)で入山しようとしていた。そこで彼が所持していた鎌二丁を証拠品として押収した。
徳山藩山廻り役人によるこのような処置は、本藩末武村民の怒りをかった。さっそく、徳山藩がそのような仕打ちをするなら、力には力で対抗しようということで、翌三日は末武村農民三五人が馬一〇疋とともに入山した。このような行為が連日強行されたので、たまりかねた徳山藩府は山廻り役に命じ、二十五日花岡町畔頭中村善右衛門へ、末武村農民の生野屋村長尾道からの通行禁止を申し入れた。
一方、末武村からも本藩府へ、瀬戸村入会山へ生野屋村長尾道から入山するとき、徳山藩方よりの阻止があったことを報告し、善処方を要望した。このような紛争が生じていても、芝草刈りは中止することのできる問題ではなく、日々の農業に直接関係する緊急を要する用務であった。そこで本藩郡方代官は徳山藩方と交渉し、取急ぎ二つの合意点を定めた。
両藩の合意ができたのは、一八三四年(天保五)四月である。合意点は二つあり、一、末武村民が長尾道を通って入山する日は隔日とする。二、末武村は徳山方に入山料を支払うということであった。
この合意点は当面三カ年間施行し、支障がなければ延長するということにした。これをみると、末武三カ村にとりすこぶる不利な条件である。従来は入山料を支払うことなく毎日入山できたにもかかわらず、これ以降は長尾道からの入山の日数が制限され、そのうえ入山料を支払うことになったからである。しかし、末武農民の立場に立って徳山藩と交渉した本藩方の役人は、このような譲歩は仕方があるまいと判断したのであろう。なぜなら、入会山は本藩領ではなく、徳山藩領にあるからである。古くからの慣習を主張し、既得権を擁護することも可能だったかも知れぬ。だが、事態は緊急を要し、支藩の領有権にかかわる事柄である。きっと、この二つの譲歩で紛争が解決するならば、このような措置は仕方があるまいと本藩方役人は考えたに違いない。