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末武村歎願書

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末武村願書写

 一八三五年(天保六)三月から四月にかけ、双方の村々からそれぞれの藩府へ歎願書が提出された。先に本藩末武村から提出されているので、その文面をみることにする。
   御願申上候事
都濃郡御宰判末武三ケ村御百姓中、往古より徳山御領瀬戸村譲羽於山野、草木刈取奉遂御百姓候、然処右瀬戸村之内え木草刈取罷越候者も、長尾道通路之処、彼御領生のや村より相支り候ヨリ発し、故障出来追々御歎申上、御厄害ニ至り奉恐入候、右ニ付てハ追々徳山表御掛合ニ相成、今般生野屋村并瀬戸村より申出之趣を以、徳山表より御答有之由、御写書をも被相副、地下中折合可然との儀、段々御諭シ被仰聞難有奉存候、此余十口御歎申上るハ之相済段孰も奉考候得共、右両村申出之趣ニて有之、往古より之行形大ニ相違仕候、而已ならす第一場所狭り相成候ニ付てハ肥田木行足不申、差閊罷有候ニ付、又々御歎左ニ一ツ書を以申上候
一、右両村受状之内ニ、真那笹より柳ケ浴迄ハ入相刈ニ可仕、金山峯尾通より若山迄之儀は、生野屋一手限り之刈場ニ付、相違不仕様申出候得共、御役人様も段々被仰聞ニ依て、乍難渋入相刈隔日落着仕候と相見へ候、是等之儀則相違仕たる事ニて、南受日平之場所は、往右より瀬戸村とは入相刈ニも仕候得共、生野屋村と入相刈仕候儀一向無御座候、剰札買受高半方往来而已ならす、刈場迄も隔日相成候ては、刈場所無数草薪行足不申段御考味可被遣候、且入相刈ニ相成候てハ手之下異論之基ニ相成、又候御厄害出来仕候段眼前之儀ニも存し、行形之通瀬戸村之外入相刈、尚山札印書入之儀御断申上候事
一、生野屋村ニおゐても、定たる刈場と申儀は先年以来無御座候得共、陰地大畠之浴と申山野、中古以来一年限り之刈場之様ニ相成居儀ニ付、彼村差閊之儀は無御座候様ニ奉存候、前条ニも相見え候場所、末武三ケ村并ニ瀬戸村ニ刈取仕候場所を三ケ村入相刈ニ相成候てハ、場所相迫り及差閊候間、御考合被成遣候様奉願候事
一、同村より二月差出候本請状之内ニ、長尾道往来左右生野村引請刈場ニ付、日々勝手ニ罷越候ニ付、末武村人抜刈不仕様と申出ニ相見ヘ候、是等之儀も大ニ相違仕、御領境より都て瀬戸村之内ニて、右場所往古より生野屋と入相刈ニ仕候儀ハ、既ニ道より北え端一昨年迄入相刈仕、現在彼村ニおゐても存知之前ニ御座候、道より南自然と只今ニおゐてハ生野屋村之定たる刈場之様ニ相成候得共、全ク左右共彼村引受と申筋ニてハ無之候、毎春受状ヲ以、人馬札ともニ買受仕候得共、右山札ニも瀬戸村野山札と計有之候ニ付、前段に相見ヘ候生野屋刈場ヲ除、残り山野入相ニ仕候段勿論之儀ニ奉存候、此度両村より申出之筋に候得は、右山札ニも何山と申書入ニても可有御座筋ニ奉存候、勿論受状ニも格別右え当ル文面等は無御座候、旁之趣御考吾御僉儀被遣候様、行形通御願申上候事
一、長尾道通路之儀は、札買受之半方印書入札ヲ以隔日往来、同所通路不相成日は登り立道新道刈場ハ、右札持参之儀は勝手次第との御事ニ御座候得共、登り立道刈場ハ草木無之参候詮無之、登り立道え参りても、大ひら浴より落合辺若山迄之間え不罷越候てハ刈取相成不申候、両村御請書ニ相見え候刈場隔日と御座候てハ、其外場所無御座難渋千万参り掛りニ御座候、前条ニも申上候通、何分御勘弁被成遣、行形之通刈取相成候様御願申上候事
一、前断ニ相見え候日之平刈場、近年若松立等も有之、古来よりハ場所余分相廻り、其上前ニも申上候三ケ村入相ニてハ旁難渋至極御座候、瀬戸村之者委細之訳存知候得共、此度生野村同様御請書差出候得共、故障出来已前相対ニて申合之儀も御座候、何卒於御勘場応対を被仰付候ハヽ申縮度、尚論地場所并ニ若松立彼是御見分被仰付候様御願申上候事
右之趣ニ付、御役人様御出張地下人共被召出、徳山表ヨリ御達之趣ヲ以、地下中折合候様厚ク御諭方被仰付畏候、然ル処従来行形と違たる義多ク難渋至極奉存候、末武三ケ村御田地余分之石高ニて、牛馬飼草彼是拾歩壱万ニも足り不申故、乍恐地下中落着不得仕候、然共今被仰聞候儀、一ツとして御請不申上候てハ不相済段被仰聞候御事ニ付、御詮義詰先三ケ年買受高札半方隔日長尾道通路之儀ハ、御請ヲも可仕候得共、其余之儀は幾重ニも御受不得仕、御厄害恐多奉存候得共、廉書ヲ以挙て御願申上候間、得と御詮義被仰付被遣候様奉願上候、既ニ昨年も買草干鰯等ヲ仕作り付仕候様被仰付、奉得其意候得とも難渋もの多く、年々右之様義ハ不相調、既ニ刈取之時節ニも差掛り、御詮義御障取被成候てハ手之下差閊ニ至り、終ニハ御田地薄地ニも可相成歎ケ敷奉存候、旁之趣御詮義、片時も早ク御沙汰被成可被遣候奉頼上候、以上
             末武三ケ村御百姓惣代
   天保六未ノ       中尾伝蔵
      三月         亀二郎
                 弥左衛門
                 儀左衛門
                 喜左衛門
                 熊次郎
                 繁右衛門
                 勘左衛門
                 源左衛門
                 惣右衛門
                 又左衛門
                 喜兵衛
              畔頭
               竹村三郎左衛門殿
              同
               中村伝左衛門殿
              同
               松村惣兵衛殿
              同
               田中寅之助殿
              同
                 喜左衛門殿
              同
                 五郎右衛門殿
              同
               村田与三左衛門殿
              御庄や
               森重与一左衛門殿
              同
               堀 三左衛門殿
              同
               野村又六殿
            (花岡村役場文書「末武三ケ村願書写」)

 右のことは、大意つぎのように書かれている。
(一) 末武三カ村は、昔から瀬戸村内の入会山で草木を刈取っていた。
(二) 同山への入山道に当たる長尾道で、生野屋村百姓から通行を阻止された。
(三) 本藩郡方にこの件の解決を歎願したところ、徳山藩方の生野屋村の請書を示され、この線で折れ合うよう諭された。
(四) その請書の線で妥協すると、末武三カ村は草木が不足し、農家経営は肥料・飼料不足で維持できなくなる。
(五) 生野屋村方主張の間違っている点は左のとおり。

(1) 生野屋村は村内に単独の草刈場がないというが、大畠の峪という刈場がある。
(2) 生野屋村は、末武三カ村の入会山に入会権があるというが、そのような事実はない。もしこのような入会が実施されると、末武三カ村に重大な支障が生ずる。
(3) 生野屋村は、長尾道の左側は生野屋村の刈場で、そこを勝手に末武三カ村の農民が通行しているというが、そのような事実はない。
(4) 生野屋村は、真那笹から柳か峪までは生野屋村・瀬戸村・末武村三カ村すべての入会山といい、金山の峯から若山までの山は、生野屋村だけの入会山というが、これは事実に反する。

(六) 本藩郡方は、生野屋村請書の線で妥協し、今後は長尾道から隔日入山とし、さらに入山料を支払うようにとのことであるが、このような悪例は請合えない。請合えば末武三カ村の将来はない。
(七) 本藩郡方は、今後もし草木が不足するならば、他所から干鰯を買って肥料とせよとの指示だが、末武三カ村の百姓は貧乏でそのようなことはできぬ。
(八) 一日も早く、従来通りの入会山と入会権を回復できるよう措置してほしい。

 この歎願書は、同年三月に末武村三カ村百姓惣代一二名が本藩方へ提出したものである。(三)の「生野屋村請書」というのが、両藩が合意した二点をいう。末武三カ村としては、従来通りの入山方法を強く藩府に要望しており、合意点の破棄を求めている。そのうえ、このようなことが施行されるなら、末武三カ村の将来はないとし、歎願というよりも強要に近い姿勢で、これまでの慣習的入会権を主張している。