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生野屋村歎願書

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 末武村から歎願書が提出された翌月の四月、生野屋村からも徳山藩府へ歎願書が提出された。この歎願書はつぎのとおりである。
   御願申上候事
生野屋村御百姓中、往古より瀬戸村於野山ニ木草刈取奉遂御百姓候、然ル処瀬戸村野山先と御領境より南向日平金山迄、当村一手限リ刈場ニテ御座候、尚南向田平真那笹柳ケ浴は末武村入合刈仕候処、去午四月より追々御諭方被仰付候ニ付、難渋之儀ニハ御座候得共、瀬戸村野山之内南向日平若山小川下より真那笹浴迄、当年より三ケ年間末武村御百姓札買高之半方、隔日入相刈取之処御  申上候、且亦長尾道之儀は往古より末武村    草刈取之節は通り不来候処、度々御諭方ニ付是亦三ケ年之間、札買売高人数之半方、隔日通路之儀は御受申上候、右ニ付今般末武村三ケ村より申出之趣ヲ以、萩表え御答有之由ニ付、於御客屋ニ御写書をも地下頭百姓中え御読諭被仰付処、彼村申出之儀は大ニ相違仕、右様ニ御座候てハ当村御田地薄地ニ相成、其上御百姓中取続相成不申候ニ付、左ニ一ツ書ヲ以申上候
一、末武村より申出之趣南向日平之場所ハ、往古より瀬戸村末武村両村計入相刈と申出候様ニ相見へ候へ共、眼前相違仕  事ニて南向日平真那笹柳ケ浴二浴計入相刈仕、其余之儀は瀬戸村は格別、其外入相刈仕候場所ハ無御座、雲山峯尾通りより次々広谷ひへとこケ原長尾道左右ハ勿論之儀ニ御座候、然ル処一昨年より彼村無理成儀申立候処、過ル正月御役人様方当村へ御出張ニて御諭、又々過ル二月於御客屋御役人様方厚ク御諭方被仰付候ニ付、無拠南向平若山小川所より真那笹迄ハ三ケ年之間、彼村札買受高之半方隔日通路之儀は、乍難渋無余儀訳ニ付御受申上候得共、彼村折合不申候ハヽ已前之通行形ニ被仰付、尚長尾道通路不仕様手堅ク御締被仰付可被遣候、若亦受状前ニて刈取仕候ハヽ、長尾道え通路之者えハ札え印書入被仰付可被遣候、末武村より印書入之儀断出と相見え候得共、此段ハ幾重も印御書入可被遣候様奉願出候、
一、生野屋村定たる刈場、先年已来無御座候様ニ末武村より申出ニ御座候得共、以前ハ生野屋村御田地無御座様ニ相見え候得共、往古より御田地御定前ニ御座候得は、是亦相違仕たる事ニ御座候、且陰地大畠ケ浴と申儀は何れ之所ニて御座候哉、猶亦三ケ村入相刈と申儀は真那笹柳ケ浴計り、外ニ入相刈仕候場所無御座候、且亦末武村刈場所相廻り為差閊申出候様相見え候得共、高垣新道辺其外刈場所御座候ニ付、一向差閊之儀無御座様奉考候、
一、末武村より差出候歎書之内、御領境より都て瀬戸村之内ニて、右場所往古より生野屋村入相刈仕候儀は、既ニ道より北ケ輪入相刈仕、現在当村ニも存知之様ニ申出候得共、入相刈ニ仕候儀は当村之内壱人も無御座、其内末武村より盗刈仕候儀は存不申候、且亦道より北ケ輪と申儀は、孰之道ニて御座候哉御詮儀可被遣候、道より左右入相刈之様ニ申出候へ共、是等之儀は長尾道共ニ御座候得ハ、大ニ相違之儀ニ付御考合を成、訖度御僉儀被仰付可被遣候奉願候、
一、長尾道通路之儀は、過ル二月御受状仕候通ニ御座候間、末武村落着ニ御座候ハヽ、当年より三ケ年之間山札買高人数之半方印書入ニして、隔日通路之儀相違不仕様締方被仰付可被遣候、其余之儀は末武村山人行形通、新道登り立道通路仕候様、堅御締被仰付可被遣候奉願上候、
一、末武村より右除と申儀は、一昨年鎌七枚差留候儀共ニ御座候哉、是等之義は内済ニ致候ヘハ、ケ様ニと彼村御庄屋より御頼ニ付内々相済シ申候、右様被聞合可被遣候、
右前書之趣ニ付、於御客屋ニ御役人様方御出張ニテ地下人共を召出、萩表より御達之趣御諭方被仰付奉得其旨候、然ル処従来之行形通違候てハ甚難渋至極ニ奉存候間、前文之趣ヲ以御詮義詰被成遣、孰も当二月御請申上候通之外、御請不得仕候ニ付、当村受状前末武村落着不得仕候ハヽ、先規之行形ニ被仰付被遣候様、乍恐早々被成御沙汰可被遣候、奉願上候、
以上、
  天保六乙未ノ四月
             生野屋村御百姓惣代
                畔頭
                 友右衛門組
                頭百姓
                  新左衛門
                  文蔵
                  弥左衛門
                  甚左衛門
                  藤左衛門
                  七右衛門
                同
                 七衛門組
                  周左衛門
                  市助
                  又右衛門
                  与左衛門
                  忠吉
                  平左衛門
                同
                 弘中孫助組
                  代次郎
                  長蔵
                  六左衛門
                  清七
                  忠蔵
        畔頭 友右衛門殿
        同  七右衛門殿
        同  弘中孫助殿
      御庄屋 清木善兵衛殿
         (花岡村役場文書「生野屋村願書写」)

 右の歎願書を要約すると、つぎのとおりである。
(一) 徳山藩府から呼出しがあり、末武村方の①長尾道からの隔日入山、②入山料徴収の二点で妥協せよとのことで、仕方なく承認した。
(二) ところが末武村方はそれに不満で、歎願書を提出したとのことである。もし末武村方の申分が通れば、当村の百姓は農業を維持することが困難となる。
(三) 末武三カ村が主張する入会山に関する申立てはすべて間違っており、末武三カ村方は当村入会山を盗刈りしている。
(四) 末武三カ村の入山札半分に「長尾道通行許可」の印を押し、山札の監視を強化する。
(五) 合意点二項以上の譲歩は絶対にできない。


生野屋村願書写

 この歎願書は、生野屋村百姓惣代一七名から徳山藩府方へ提出された。歎願書の要点は、「前年合意した二点を厳守してほしい」ということに尽きている。そうしたうえで、もしも末武三カ村方の要望が通り、これ以上の譲歩が実施されるなら、生野屋村方の農民は生計の維持が困難になると述べている。そのうえ、入山札は半分だけ長尾道を通る許可を与えるよう要請し、不正入山阻止のための監視方の強化を訴えている。