ビューア該当ページ

紛争の解決点

483 ~ 485 / 1124ページ
 瀬戸村にある末武三カ村の入会山は、生野屋村を通って入山するということであって、このような紛争が生じても解決が困難であった。この困難さの第一は、末武三カ村が本藩領であり、生野屋と瀬戸村が徳山藩領という領地の違いがある。第二に、村は原則として村内自給が原則とはいえ、他村に入会山を求めなければならぬ平地の村と、村内に広い草木地を持つ山村との間に利害の対立があった。第三に、本節の始めに述べたように、草木が肥料・飼料として商品価値を高めてきたという、当時の経済状況があった。このことは、末武三カ村農民に対し、本藩役人が「それだけ肥料として草木が欲しければ、干鰯を買ったらよい」といったことばに表われている。

生野屋地区から入会山を望む(遠景の山が入会山)

 もともと、萩藩における入会山は、「牛馬を放し飼いにし、下木を取る山を入会山とする」という藩政初期の「万治制法」によって、その共同用益が認められているものである。当時は、草木が商品的価値をもつことなど、考えられもしなかった時期である。こうして成立した入会山は、長い間慣習として維持されてきた。このため、入会山地の絵図もなければ規定もない。いったん紛争が生じたなら、その正否を判定する基準も方法もなかった。したがって、今度の両村の入会紛争騒動も、両藩の合意事項で農民をなだめる以外に解決の方法はなかった。そこで、双方の農民がそれぞれの藩へ、慣習による自村の権利を主張しても、藩としては農民の意見をきき入れることはできなかった。
 一八四一年(天保十二)、本藩は『風土注進案』という村勢要覧を作成するが、末武三カ村の記載事項のなかに、つぎのような記載がみられる。
  末武上村
  一合壁山之事
    町数拾六町弐反七畝
     此立銀八拾壱匁五分四厘
  末武中村
  一合壁山之事
    町数四町壱反三畝
     此立銀弐拾壱匁五分七厘
  末武下村
  一合壁山之事
    山根山三町四反六畝
     立銀拾七匁三分

 ここにみられる合壁山とは入会山のことであるから、末武三カ村で入会山を村勢に応じて分割し、三カ村が入山料を立銀として徴収し、これを徳山藩方に支払ったと考えられる。このようにして、今度の入会山騒動は鎮静化するが、これでこの後の小さな紛争まで解決したことにはならなかったであろう。この後も小さな紛争は続いたのである。