花岡勘場跡碑
この巡見上使の制度は、江戸時代初期から幕府が巡見使を全国に派遣し、天領・私領(大名領)とも、その行政実態を観察させ、実況報告を求めた制度である。この制度は中断したこともあるが、江戸中期以降は将軍の代替りごとに実施された。しかし、この三八年が最後の巡見使派遣であり、この後は実施されていない。
ともあれ、藩府は花岡勘場の建替えを行い、巡見上使に失礼のないよう措置することにした。もともと、勘場という藩府の公共物は、その経費はすべて藩府が負担するのが原則である。しかし、この新規改築に当たり、藩府が用意したのは銀一〇貫だけであった。残りの建築資金は、受益者負担として地元が工面することになった。大庄屋は藩府に願い出て、郡頼母子米四〇石(郡頼母子は後述)を融通してもらい建築費に加えたが、それでもなお資金が足りなかった。
そこで大庄屋城市郎右衛門は、つぎのような願書を藩府へ提出した。
御願申上候事
一米四拾三石六斗六升壱合六勺九才
(略)
何卒当秋勘場小貫ニて貫立被仰付被遣候様、諸村御庄屋小都合中より申出候条、此段宜被成御沙汰可被遣候、以上、
天保九戌九月 城市郎右衛門
一米四拾三石六斗六升壱合六勺九才
(略)
何卒当秋勘場小貫ニて貫立被仰付被遣候様、諸村御庄屋小都合中より申出候条、此段宜被成御沙汰可被遣候、以上、
天保九戌九月 城市郎右衛門
これで分かるように、勘場小貫とは勘場で集める地方税のことである。右の文面では、諸村の庄屋から醵出金の申出があったのでそれを実施したいと述べているが、これはことばの綾であり、地方税を喜んで醵出する者はいないであろう。必要経費が不足したので、年貢米供出に準じて、臨時地方税の徴収方を藩府へ願い出たのである。
この大庄屋から提出された願書は受理され、管轄区内農民の年貢高一石について、米一石一勺余を徴収することが許可された。こうして花岡勘場は新しく建替えられたのである。しかし、この新しい勘場に巡見使が宿泊したのではないであろう。宿泊したのは勘場のそばにある御茶屋であったと考えられ、勘場は一行中の下級士が利用したのではないだろうか。
また、勘場が新しくなれば、備品も新しくしないと不釣合いになる。このため、藩府は備品費としてできる限りの公費支出を行ったが、それでも銀二九貫余が不足した。そこで大庄屋は再び藩府の許可をえて、銀二九貫余を臨時に徴収した。この金額は、年貢高一石に対して銀八分二厘余であった。