ビューア該当ページ

心学の奨励

491 ~ 492 / 1124ページ
 このころ(天保期=一八三〇~四三)になると、社会状勢に変化がみられ、人心が大きく動揺した。そこで藩府は人心の動揺を鎮めるため、他国から心学者を招いて心学道話の開催を奨励した。心学道話は講師が村民を集め、勤勉貯蓄の必要性と勧善懲悪の考え方を、分かりやすく庶民に話しきかせるものであった。これに要する費用は、その地方富裕者の醵出金によった。
 一八三九年(天保十)、大庄屋野村又六以下二五人の者が、連名で心学についての願書を藩府へ提出した。この願書の要点は、つぎのようになっている。(一)心学を学ぶようにとの御達しがあり、大いに喜んでいる。(二)それを学ぶための方法として、頼母子講を開催し、その制度による利金を心学費用としたい。(三)その基金として銀一〇貫目をあてる。(四)頼母子講が満期になれば、その銀を上納する。
 右で分かるように、大庄屋野村又六の一番心配していることは、藩の奨励する心学講師を迎え、その経費をどのようにして支出するかであった。大庄屋の考えたことは、自分が率先して費用を醵出し、二五人の富裕者の同調をえて頼母子講を始める。この頼母子講の利金で講師謝礼及び経費一切をまかなうなら、頼母子講の続く限り心学道話を開催することができるということであった。しかも、最後には銀一〇貫目を上納することができ、藩府も満足し講員の名誉にもなるという方法であった。
 右のような方法は、この心学道話開催に当たって、他の宰判でも実施された方法かどうかは分からないが、かなりよく練られた費用捻出方法である。
 このとき藩が招請した心学講師は、安芸国広島の奥田寿太であったと思われる。寿太はこのころ大島郡で心学道話を行っており、それに引き続いて都濃郡に招請したと考えられる(『萩市史』一)。