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雑穀囲方の実施

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 この時期(天保期=一八三〇~四三)は、天候不順による農作被害を毎年のように萩藩は出している。このことを、『山口県文化史年表』からまとめるとつぎのようになる。
一八三〇年(天保元)風雨洪水一三万石
一八三二年(〃 三)五万石
一八三三年(〃 四)五万石
一八三四年(〃 五)風雨旱魃五万石
一八三五年(〃 六)霖雨暴風雨蝗害一三万石
一八三六年(天保七)風雨洪水二七万石
一八三七年(〃 八)一〇万石
一八三八年(〃 九)風雨旱魃蝗害二三万石
一八三九年(〃 十)風雨洪水八万石
一八四〇年(〃 十一)一三万石

 一八三九年(天保十)、藩府はつぎのような雑穀を囲い、非常食糧とするように農民に命じている。
(1)実麦十四石六斗七升
(2)干菜四千二百六十三れん
(3)干大根百五十貫目
(4)二石三斗
(5)蕎麦七石三斗五升
(6)大根百五十貫目
(7)切干八石二斗五升
(8)荒麦四斗三升
(9)大豆葉二俵
(10)麦ぬか五石九斗
(11)芋葉六十れん
(12)ぬか一斗

 花岡勘場においても、轄内村々に対してこの通達を伝達し、非常用雑穀の確保を促した。このような雑穀一二種の中には、雑穀とは呼べないものもある。前述のうち干葉・干大根・大根・切干・大豆葉・芋葉などは、誰がみても雑穀とは呼べないものであろう。麦ぬかやぬか(米ぬか)も雑穀とはいえないものである。しかしこれらも、実麦・稗・荒麦などと混ぜるなら、非常時用食料にはなったと考えられる。しかし、右のような非常用食料の保存命令が、藩主の名前で出されていることは注目してよい。雑穀の保存というのは、農民が自覚して措置しなければならないもので、しかもあまり大切なものとは考えられぬものであるから、「藩主特別の御趣旨」ということで権威付けをしたものであろう。
 このような雑穀保存の措置が、いつごろから実施されたのか不明である。また、果して農民が藩の指示どおり公的保存以外に、それに準じて一軒一軒本当に保存したものかどうかも疑問である。これら雑穀のなかに、大根及び大根の加工物が多いことは、非常食料としての大根の利用価値が高かったためであろう。
 右記の伺書にみられる雑穀の量は、村全体で保存する雑穀量であろう。村でこれだけの量を確保し保存するとなると、倉庫を建て保存しなければならないし、長く保存するためには毎年定量を入れ替えなくてはならなかった。毎秋収穫する雑穀を保存する必要性は分かるが、その外に大豆葉・大根葉のように平常なら捨てる葉類まで、非常用食料として保存を図っていたのである。