先の雑穀囲方の項でふれたが、このころは天災ともいうべき風雨洪水が多かった。このような災害に対処するため、藩府は囲穀制度を実施していた。囲穀は、凶災などの非常の災害に備え、平年時に米籾・麦籾などを貯えておく制度である。本藩では、天和の囲穀をはじめ数多くの囲穀制度を実施し、非常の災害に備えていた。したがって、村中にはいくつかの囲穀倉が設置されていた。この囲穀について主なものをあげると、享保囲穀・寛政囲穀・文化囲穀・天保囲穀などを数えることができる。
一八四四年(弘化元)五月二十七日、防長両国は大雨洪水に見舞われ、多くの被害を出した。花岡勘場管内も大きな被害を受け、九月になると大庄屋は大略つぎのような歎願書を藩府へ提出した。
(一) 囲穀籾のうち四四石余を放出してほしい。
(二) 今回の分は末武川筋被害農民の救助米とする。
(三) 今年五月二十七日の大洪水は被害甚大で、川筋は人家流失、山筋は山崩れによる人家倒壊が生じた。
(四) 被害者のうち流失家屋者へは米三斗、倒壊家屋者へは米二斗を早急に支給したい。
(五) 今回の囲穀放出に付いては、返済なしの処置としてほしい。
大庄屋の歎願書は受理され、囲穀米は放出された。囲穀米は籾のままで保存する。これを玄米または搗米として保存すると、年数が経つに従って品質が悪化するため、籾のままで保存したのである。緊急放出された籾米は、被害者の手で籾をとり食糧とされたことであろう。
今回の末武川の氾濫は、囲穀放出の処置を伴うほどの大災害であった。大庄屋の提出した歎願書の最後に、「返済なしの処置」と明記されていることは注目してよい。このことは、災害の軽重によって、放出囲穀を年内に返済する場合もあることを意味する。今回の災害は、「返済なし」を要請したほどであるから、最大級の被害であったとみられる。ちなみに、このときの流失家屋は四軒、倒家は九七軒であった。