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風土注進案の提出

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 一八四一年(天保十二)本藩では郡奉行から各宰判へ、宰判内村々の実態報告書の提出を命じた。このため花岡勘場管内でも、「地理産業仕出」という名称で、この村勢報告書が一斉に提出された。
 村勢報告書は、当時本藩が実施していた天保改革の一環で、藩府が農村の実態を把握しなくては農村の改革はできないという立場から、この報告書提出を命じたのであった。報告内容は、村の面積・石高・貢租・囲穀・公共物・街道・山野・河川・橋・堤防・溝・戸数・人口・在郷武士・風俗・産業・物産・樹木・魚虫獣・寺社・古城跡など、生活全般にかかわるあらゆる事項を含んでいた。本藩はこの報告書を集大成し、『風土注進案』と名付けた。同書に記載されている市域内の村々については、本章7に詳しい。

風土注進案 末武三カ村

 一八四六年(弘化三)二月、『風土注進案』につき、花岡勘場では大庄屋から藩府へ大意つぎのような伺書を提出している。
(一) 米三石四斗余と銀二貫四二匁余の支給方を願う。
(二) これは地理産業仕出(『風土注進案』)編纂に要した経費である。
(三) この経費は公費支給とのことであり、実施方を要請する。
 右のことから、四六年に『風土注進案』の編纂が完了し、それに要した諸経費を大庄屋が藩府へ請求したことが分かる。このことから『風土注進案』に記載されている統計数字は、一八四一年(天保十二)のものであるが、この報告書(「注進案」)が作成されたのはそれ以降のことといえる。右の伺書でみる限り、『風土注進案』の編纂事業がすべて終了し、その総経費が請求されたのは一八四六年(弘化三)であるから、編纂期間は五年間を要したことになる。本書の編纂は、当時において画期的な大文化事業であったことが、この五年という長い編纂期間から、窺い知れるのである。
 このような大庄屋からの伺いに対し、本藩郡奉行は花岡勘場の公金のうち、御立山修補金のなかからこの経費を支出するように命じている。