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諸郡御救頼母子

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 一八五六年(安政三)十一月、花岡勘場の大庄屋から藩府に対し、諸郡御救頼母子を存続してほしいとの願書が提出された。では、この諸郡御救頼母子とはどのようなものであろうか。
 ある家の家計が行き詰まったとき、親族や知人が集って頼母子講をつくり、困った家が親となってその頼母子を落札し、その掛金をもらって家計を建て直すことを「仕組立」という。同じように、宰判の会計が行き詰ったとき、困窮した宰判を助けるために始まった頼母子講を諸郡御救頼母子といった。この頼母子講は、各宰判が子となって講金を入れ、困った宰判が親となって掛金を落し、宰判の会計を立て直す仕組みである。この御救頼母子を運営するのは藩府であった。
 花岡勘場の大庄屋が、藩府へ願い出たことの要点は、つぎのとおりであった。
(一) 諸郡御救頼母子の残り配当高が一二七石余ある。
(二) この頼母子は明和年中(一七六四年~七一年)から始まっている。
(三) 今度藩府の指示で、諸郡御救頼母子を廃止するということを知った。
(四) 当宰判(花岡)は当島・美祢宰判とともに、未配当宰判である。
(五) それを今回で廃止することは無理な面があり、満回まで続けてほしい。
 これでみると、諸郡御救頼母子は明和年中から始まったと書かれている。そうすると、この一八五六年(安政三)まで、すでに九〇年の歴史をもっていることになる。これは大変に息の長い頼母子であり、藩内一八宰判のうち毎年一宰判ずつが落としたとしても、各宰判ともすでに五回以上落としたことになる。
 ではなぜこのような長い歴史をもつ諸郡御救頼母子を、藩府は廃止しようとしたのであろうか。それについては右の伺書には何も書いてないが、推定できることは、このころになると宰判による経済上の格差が大きくなったためではないだろうか。山代宰判のように貧しい宰判と、山陽部の豊かな宰判とでは格差があり過ぎ、貧しい宰判を救うという本来の目的は失われてしまい、惰性で頼母子が続けられていたからではあるまいか。
 また、花岡宰判の大庄屋が強く今回での打切りに反対したのは、未配当三宰判に同時に配当された場合、本来ならかなり入手できる利米の減額が予想されるからではあるまいか。しかし、この願書の結果がどうなったかは、この後のことを書いた史料がないので分からない。