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異賊防禦手当

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 一八四六年(弘化三)五月、花岡勘場の大庄屋は、異国船防禦手当について藩府へ伺書を提出した。では、なぜこのような時期に異国船問題が生じたのであろうか。一八四四年(弘化元)、オランダの国王は国書をもって幕府に開国を勧告するということが起きた。しかし幕府は通商はするが通信はしないといって、国書のことはなかったことにすると返答し、このことを公表しなかった。また同年、フランスの軍艦が琉球に来航し通商を求め、二人を居留させて日本語を修得させた。翌八四年イギリスの軍艦が琉球に来航して通商を強要した。時勢は、欧米各国がアジアに植民地を求め、開国をせまっていたのである。
 萩城の近くにも異国船が出没するとの情報もあり、このころになると異賊襲来・異賊防禦の声が高まった。そこで本藩では異賊襲来に備え、日本海に面した北浦防備のため、要所に砲台を建造して防禦することにした。
 このような時期の四六年、花岡勘場の大庄屋が提出した伺書の大意は、つぎのとおりであった。
(一) 米一石三斗五升余の米穀は、当宰判から異国船防禦のため、奥阿武、前大津・先大津へ出動する人夫手当高である。
(二) 三宰判へ農民五〇人ずつが割当てられたが、この費用を銀にすると二貫二五〇匁である。
(三) 右費用を郡配当米から上納するので差引き計算してもらいたい。
 このような北浦防禦のための人夫派遣要請は、前年の四五年からなされている。しかし各宰判においては実際に人夫を派遣するのではなく、人夫賃を上納することでこの課役を果たしている。花岡勘場では、郡配当米からそれを差し引いてほしいと願い出ているのである。