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嘉永社倉の建立

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 さきに、囲穀米制度のことについて述べたが、囲穀米制度による備荒貯蓄米の倉を社倉と呼ぶ。一八五三年(嘉永六)、藩府は度重なる天災・凶作に対処するため、またもや囲穀のための社倉の設置を命じたが、これを「嘉永社倉」という。これまでの社倉は享保・寛政・文化・天保と四倉程あったが、この嘉永の社倉が新しく設立されることになり、社倉は五倉となったのである。
 同年二月、花岡勘場の大庄屋は社倉献納のための献金者名簿を藩府へ提出した。この名簿には、村名と社倉建設金額、及び献納者名が書かれている。それをまとめるとつぎのとおりである。
<末武上村> 銀三貫三二九匁余
銀六四二匁余上村惣右衛門
〃六四一匁余野村又右衛門
〃同内藤源右衛門
〃同原田与兵衛
〃同近藤半兵衛
<末武中村> 銀一貫八三三匁余
銀三八三匁余末光小兵衛
〃三八〇匁堀 藤四郎
〃同堀吉郎右衛門
〃二三〇匁金田 文助
〃同小林文右衛門
〃同有吉三郎右衛門
<末武下村> 銀二貫六二二匁余
銀六七二匁余田中 平作
〃六五〇匁林三右衛門
〃三〇〇匁林 権平
〃四〇〇匁下村治右衛門
〃二〇〇匁田村治右衛門
〃同田中市郎右衛門
〃同田村 勘兵衛
<下谷村> 銀一貫一九七匁余
銀五九八匁余福田清右衛門
〃同田村太郎右衛門
<切山村> 銀八九一匁余
銀一〇一匁余野村 彦兵衛
〃一〇〇匁余河村甚右衛門
〃同河村 勇吉
〃同大本 庄蔵
〃同   十太郎
〃同   万吉
〃四三匁   安右衛門
〃同   儀右衛門
〃同   和右衛門
〃同   文蔵
〃同   要蔵
〃同   三蔵

 右は一八五三年(嘉永六)の社倉(備荒米倉)設置にさいし、資金献納者のリストである。これで気付くのは、村によって献納者一人当たりの献金高の違いがあることである。末武上村は献納者一人当たり六四一匁以上であるが、切山村ではほぼ全員が一〇〇匁以下である。このことは、村によって富裕者の財力に違いのあることを反映したものであろう。
 また右でみる限り、社倉を公費で設置した例はなく、その経費はすべて村民負担であった。しかし村民負担というものの、村民全部に負担させると低所得者の負担が重くなることから、村の富裕者の醵出金で設置されているということである。そのためもあろうか、社倉の入替米について、富裕者の権限が強くなってくる。したがってこのころになると、村において社倉資金献納者の力が増大し、貧富の格差が開いてくるのである。