一八五四年(安政元)、本藩府は各宰判内の有徳人(富裕者)に令して姥倉(うばくら)運河の建設資金の醵出を求めた。その理由は、一八五一年(嘉永四)から始めた姥倉運河の建設資金が不足したからである。
阿武川は萩町の手前で二分流し、東を松本川、西を橋本川が流れて日本海に注ぐ。萩町はこの両川に挟まれた三角洲の上にできた町であった。この阿武川はたびたび洪水を起こし、萩住民に大きな被害を与えたが、特に一八三六年(天保七)・四〇年(天保十一)・五〇年(嘉永三)の大洪水は、萩住民に多大の被害を与えた。そこで藩主毛利敬親は、姥倉運河の開削を命じた。この工事は、萩町東部を流れている松本川に運河を開削し、川の水を早く海へ流す河川のショートカット工事であった。
この工事はさきに述べたように一八五一年から始められたが、かなりの資金を要する大工事であった。この工事経費は、運河完成によって恩恵を受ける萩住民の醵出金でまかなうこととし、萩町人から銀四五貫目、米一五〇石・人夫三万人の醵出で始められることになった。萩住民は、資金のある者は資金を出し、資金のない者は人夫としてこの工事に参加した。しかし資金が途中で足りなくなり、藩府はついに藩内諸郡の富裕者からの醵出金を求めたのであった(『萩市史』一)。
この布令によって、花岡勘場からは、末武上村の庄屋内藤源右衛門と息子彦四郎が銀二〇貫目の献納を申し出た。しかし、献納者の内藤源右衛門父子は、姥倉運河建設の必要性を感じて献金したのではなく、村や勘場役人となったからには、献金しなくてはその体面が保てないと考えて献納したのである。ちなみに、父は末武上村の庄屋であり、息子彦四郎は勘場の算用師に採用されている。
したがって献納者にとっては、献納金が社倉建立であろうと運河掘削であるうとその使途は問題ではなく、献納したという事実が大切であった。この時、内藤源右衛門父子が献金しなかったなら、きっと大庄屋は宰判内の別の富裕者に醵出金を求めたことであろう。このような献納金は、各宰判において任意の献納ではなく、一定額を上納しなければならない半ば強制的な上納金であったからである。