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孝女まさ褒賞

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 一七六二年(宝暦十二)、孝女まさは笠戸島の浦に生まれた。父親は大酒飲みで、母は病人であった。このような家庭に育ちながら、彼女はこの上ない親孝行者であって、両親によく仕えて孝養を尽くしたことは第七章にくわしい。
 一八五七年(安政四)、花岡勘場からつぎのような伺書が提出された。
   覚書
一米一石
    末武下村百姓宇吉祖母 まさ
右の者は当年で九十四歳となります。同人の両親が生存中、両親によく孝養を尽しました。そのため藩主様から「孝女まさ所」という石碑を家の前に建てることを許され、その碑は今も建っております。このことは、同人が諸人の鏡であることを物語り、多くの人の尊敬を集めております。同人は歳老いましたがいまも健在で、このことは同人が尽した孝行の美徳が自然の道理にかなっていたためで、それによって長寿を保っているのだと思われます。つきましてはこのような奇特な人ですので、今後同人の一生にわたって、前記の御米を褒賞として毎年下賜されますなら、郡中の者たちの気風向上の励みとなることでしょう。そこで、修補米銀のうちから、頭書の御米を同人生存中給付下さいますようお願い申し上げます。お許しをえますなら、受領書などを取揃えて御報告申し上げます。
 安政四年三月                        御恵米方
                               大庄屋
                      (「都濃郡宰判本控」三四四)
 右の伺書から、孝女まさが九四歳という高齢になっていることが分る。これは当時としては大変な長寿であった。この伺書を提出した勘場役人は、まさの孝養に対してなんとか年金を与えてやりたかったのであろう。このようなことが実現すれば、宰判内に好ましい倫理観が生れることを期待したのである。また、まさが最高齢であることから、その褒賞米が勘場財政を圧迫するほど長く支給されることはないとの判断もあったであろう。
 この伺書は代官から郡奉行まで上申され、郡奉行が決裁して許可を与えているので、まさには年米一石が支給されることになった。まさはその後も長寿で、三年後の一八六〇年(安政七)に病死した。

孝女まさ絵図