花岡勘場管内のうち、奥方四カ村といわれる須々万奥村・須々万本郷村・長穂莇地村・下谷村は、中国山地の奥深い山村であって、稲作のできる水田が少なかった。そのため、村の主な産業は山の斜面を利用した畠地に楮(こうぞ)を植え、それから楮紙を生産することであった。しかし幕末期になると、萩藩の特産品であった楮紙が、大坂市場で土佐の三椏(みつまた)紙におされて売れなくなり、生産過剰となって紙価が下落した。このため、楮紙生産村は疲弊の一途をたどることになった。
市域内の下谷村はこの奥方四カ村の一つであり、村は紙生産から別の農産物生産へと転換をせまられることになった。そこで一八四三年(天保十四)、花岡勘場ではつぎのような伺書を幕府へ提出している。
(一) この四カ村は山奥の山村で耕地が少なく、畠が高石である。
(二) 畠の生産物(紙生産)が振わない。
(三) 八年前に凶作があり、その復旧に力を使い果たした。
(四) 将来の見通しが立たないため、百姓がなげやりになっている。
(五) そのため土地が痩せてきた。
(六) 修補米銀の負債があり、それが重荷となっている。
(七) 荒地が多く、しかも無税地の認定を受けていない。
(八) 借りている修補米銀を返さなくてよいようにする。
(九) 村内荒蕪地を非課税地とする。
この伺書の(一)~(七)までは、奥方四カ村の現状を述べている。一言でいうなら、奥方四カ村は「耕地は高石で痩地であり、荒地も税租地であって、農民は負債にあえいでいる」というものである。そのため、(八)・(九)で緊急措置を求めており、借米返済の延期と荒蕪地の認定を要請している。この「耕地の高石」というのは、もともと楮畠として貢租が認定されていたからである。その楮作を転換するのであるから、この事業はたやすいものではなかったであろう。
右の伺書は藩府の受理するところとなり、翌一八四四年(弘化元)から奥方四カ村の仕組立が五カ年計画で実施されることになった。この仕組立とは、村経済更生事業とも称すべきもので、村の基幹産業を紙生産から一般的農産物生産へ切り替える事業であった。この事業を推進するため、村には仕組立の責任者が置かれたが、下谷村からは畔頭貞久坂五郎組の滝蔵が任命された。
一八四九年(嘉永二)奥方四カ村の仕組立事業は一応終了し、その成果を見届けるため代官一行が廻村巡視を行った。このとき奥方四カ村の仕組立責任者は、一人当たり銀四匁三分が褒賞金として与えられた。しかし、これで奥方四カ村の困窮が解決したわけでは決してなかった。一八五九年(安政六)に、要旨つぎのような歎願書が奥方四カ村の庄屋の連名で花岡勘場へ提出されている。
(一) 一八四四年(弘化元)から十カ年間仕組立が実施された。
(二) 仕組立の内容は、村内の荒田畠を休石と認定して非課税地とし、休石期間中に耕地として回復させる。
(三) しかし十カ年間に耕地は回復せず、さらに四カ年の延期が認められた。
(四) 延長期間中検見が実施され、その実績に基づいて高い税が課せられた。
これによると、四カ村仕組立は当初の五カ年計画から一〇カ年となり、さらに四カ年延期されたことが分かる。しかし、それでもまだ更生事業は完了していない。そのため、四カ村庄屋は緊急措置としてつぎのことを続けて歎願する。
(五) 休石地に課税されるなら、貧民が続出して農民は勤労意欲を失い、ひいては藩府の損失をまねく。
(六) 今後二〇年間休石の措置を続けてもらいたい。
このような歎願を四カ村庄屋が提出した背景には、これまでもふれたように紙生産地からの脱出現象があった。天保期以前は、畠に楮を栽培して楮紙を生産すれば生計が維持できた。しかし天保期以降村で唯一の産業である楮紙生産が振るわなくなると、楮畠を他の作物に転換しなければならなくなった。この転換のための措置が休石の制度であり、これは難事業であった。一番望ましい転換は畠を水田とすることであるが、水利の便や段々畠を水田とする作業は長い年月を必要とした。四カ村の庄屋は村民の強い要望を代表して、歎願書を提出したのであった。この歎願書に大庄屋西村嘉平次は、「格別の御詮義をもって許可してほしい」と添書して代官へ提出し、代官も「認めてやってほしい」と添状を書いて郡奉行へ上申している。
これを受理した郡奉行代行の玉木文之進は、「本来なら許可できないことであるが、代官からの申し出もあるから、休石を十カ年だけ許可する」と奥方四カ村の歎願を認めている。