富田町から下松町へ移転してきた穀物売買会所のその後の運営は、かならずしも順調に推移して利益を上げたとはとうてい考えられない。翌一八三六年五月になると、会所頭取が交代しているからである。すなわち、下松町伊賀崎幾右衛門に対し、国井治郎左衛門の後役を徳山藩府は命じている。
なぜ、前任者の国井治郎左衛門が一年足らずで辞任し、後任の伊賀崎幾右衛門に交代したのか、その原因はよくわからない。しかし頭取役の条件は、その家の商売が順調で、かなり経済的な余裕があることとみられるので、国井治郎左衛門にはそのような条件がこの一年間に欠けたのではあるまいか。
伊賀崎幾右衛門は頭取就任後の同年八月、商売不景気を理由に、蠟板場経営を願い出て許可されている。こうしてみると、穀物会所の問屋といっても穀物商売だけではなく、多角的経営が必要であったのであろう。
二代目頭取役となった伊賀崎幾右衛門でさえ、本業の米穀商だけではなく、他の商売も手がけるような事態であったから、穀物売買会所の経営は順調ではなかった。しかも会所は一時中断することになった。なぜなら、一八三六年分として会所から徳山藩府へ納めなければならぬ札銀六貫目が、納入できなかったからである。
このような事態は、下松米穀売買会所に集る米問屋にとって、死活の問題であった。そこで問屋中は相談し、つぎの三点を徳山藩府へ上申した。
(一) 会所が滞納している税金を指定日までにかならず上納すること。
(二) 会所規則を改正し、民営的経営を認めてほしいこと。
(三) 下松町の繁栄策を図る。町の活性化は会所繁栄の基本であること。
右の願いは徳山藩府にきき入れられ、三七年から下松米穀売買会所はとりあえず再開されることになった。しかし、問屋中が要望した「民営的経営」と「下松町の繁栄策」は、今後の検討課題として残された。