再開した穀物会所は、この後も不景気による経営危機が続いた。そのため、徳山藩府はどうしても問屋中が要望している基本的な問題に、回答しなければならなかった。一八三八年(天保九)、徳山藩府はつぎのような回答を出している。
覚
下松町穀物会所 問屋中
右富田新町穀物会所、過ル未歳より其町え場所替被仰付、最初壱ケ年来客多く令繁昌候処、其後不景気ニ相成、問屋職渡世難相成令難渋候ニ付、已前富田新町之賑を以他国客引寄セ、為足留酌取女三四人逼留御免被仰付候ハヽ諸所来客多く、穀物売買は勿論惣て諸商ヒ及繁昌、市中一統賑ひ可申由願出候処、元来右儀之義ハ地下向風俗ニも相拘候義故、容易難被及沙汰候処、会所向尚諸商ひ繁昌旁格別之訳ニ付、願通当分被差免候、尤御領内之者相混猥筋於有之は、早速差留候間旁相心得、他客之外決て猥筋無之様可仕候事、
右之通、御沙汰可被成との御事、
戊戌十月廿日 御蔵本
町御奉行処
これをつぎのような現代文に改めてみる。
覚
下松町穀物会所 問屋中
富田新町にあった穀物会所は、過ぐる天保六年から下松へ場所替えが命ぜられ、最初の一年は繁昌した。しかしその後不景気となり、問屋職で渡世することが困難となった。そこで、かつて富田新町が賑やかで他所者を引き寄せたように、下松にも酌取女三、四人を置くことが認められるなら、町も賑わい来客も多くなって穀物売買も繁昌し、ひいては町中が繁栄するとの願いが出された。このことについては、町中の風俗紊乱の基ともなることから、軽々しく許可する事ではないが、会所商売町中繁栄のためであるから、格別の特例でこの願いを当分の間許可する。このことは他所の客を集めるためであって、領内の者がこれにまじるようなことがあればただちに許可を取り消すので、そのことをよく心得ておくこと。
右の通り沙汰する。
天保九年十月二十日 御蔵本
この文書でみる限り、富田新町はかなり賑やかな盛り場であったようだ。そのため、下松町でもその賑やかさを取り入れ、他所客を呼び寄せるため、酌取女の営業を許可してほしいと願い出たのである。酌取女は娼妓と考えられることから、娼妓のいる町は賑やかな盛り場とみなされ、町の活性化と会所の繁栄策を結び付けて町全体の浮上化を考えているのである。そこで、藩府としては酌取女営業は好ましいことではないが、町と会所発展のため、特別の許可を与えたのである。
右にみるように、下松町に対する藩府のこのような繁栄のための特例にもかかわらず、穀物会所の経営はますます苦しくなっている。