これまでみてきたように、あらたに任命された会所下元方肥前屋吉左衛門など三人は、会所発展のための経営努力を払ってきた。しかし、四六年(弘化三)九月、ついにあきらめて会所の閉鎖願を提出し、徳山藩府もつぎのような承認の通達を発した。
(一) 下松町肥前屋吉左衛門・古屋正左衛門・河村屋勝助の三人は、下松町穀物売買会所下元方として天保十一年に免許を得てこれに従事していた。
(二) 右三人から、近年不景気となり商売が難渋し、当分休職したいとの申し出があった。
(三) 藩としても、対策を協議し維持策を考えたが良策がなく、やむなく休職を承認することにした。
右のことから分かるように、徳山藩府としては穀物会所の存続を強く希望していたのである。藩としては、町の繁栄策を認め、さらには会所の改善策さえ実施した。こうしてあらゆる手を尽くして存続を図ったのであるが、維持することは困難であった。それというのも、穀物=米穀という当時の重要商品は、大坂のような大都市市場の相場に左右され、下松のような小都市では市場の維持が困難であったのではなかろうか。これも時勢であり、経済状況の変化であろう。このため、三五年(天保六)に富田から移転してきて設立された穀物会所は、四六年(弘化三)までわずか一〇カ年で閉鎖されたのであった。