この大島にある両村の入会山に対し、一八三六年(天保七)九月、徳山藩府は大要つぎのような通達を出している。
(一) 東西豊井村は大島に下草刈場をもっている。
(二) この大島の下草刈場を、今度すべて藩御立山に編入する。
(三) 右について惣百姓を呼び集めて尋ねたところ「異存なし」とのことであった。
(四) 新御立山には松苗を植樹するが、松が小さい内は下草刈りを認める。
(五) 松が大きくなり下草刈りができなくなったときは、大島のうち大楠・犬帰の両所を入会山とする。
(六) 両村入会山の御立山編入について、両村から請書を提出してもらう。
(七) これまでの入会山で下草刈りをするとき、松が小さいので気をつけること。
(八) これまでと同様に、大島で下草刈りをするときは事前に届出ること。
この通達の意味するところは、大変重要なものであった。本来、2節の瀬戸村入会山騒動でみたように、入会山の下草刈りは、村の農業にとって生産力の源泉ともいうべきものであった。この入会山を、農民の同意をえたとはいうものの、一方的に藩の御立山に編入したのである。もっとも、代替地は確保し、将来での提供を約束したうえではあるが、農民の反発をまねく措置であったといえよう。
同年十一月、徳山藩府は東西豊井村地下役座へ酒を下給した。これは入会山を御立山に無事編入できたことで、東西豊井村農民に対しする謝礼であった。さらに十二月、両豊井村の庄屋であった下松町下瀬吉左衛門を永代年寄、東西豊井村畔頭六人を永代苗字、西豊井村畔頭二人を二代迄裃着用、西豊井村畔頭六人を一代裃着用の恩賞を与えた。これは御立山編入について、村役人の功労を認めた結果である。
ではなぜ徳山藩府は、農民の反発をまねくことを懸念しながら、右のような懐柔策を用いてまで、入会山を御立山に編入したのであろうか。これは当時徳山藩で施行されていた天保財政改革の一事業であったからであろう。藩財政再建のため、入会山に松を植樹するなら、きっと将来藩財政を潤す財源になるとの意図で、この御立山植樹事業計画は実施されたのである。
徳山市大島(両豊井村の入会山)