一八三八年(天保九)、下松町の景気はよくなかった。このことは、前年に穀物会所が酌取女営業を願い出ていることからも推察できる。会所は、町の繁栄・活性化対策としてこれを出願したのである。三八年九月、徳山藩府は、宮ノ洲惣代吉田半兵衛へ大略つぎのような許可状を与えている。
(一) きくところによると、宮ノ洲町中が不景気で、遊女屋さえ客が少ないという。
(二) そのため町住民の生活が苦しいという。
(三) 町活性化のため広島子供芸妓芝居を開催したいとのこと。
(四) 右の目的に免じ、日和十日間、運上銀三両でその開催を許可する。
(五) 町の秩序風俗を乱すことのないようにせよ。
右の芝居の興行者は、宮ノ洲惣代の吉田屋半兵衛であった。宮ノ洲町は下松町の東端であり、町年寄の支配区域であった。吉田屋半兵衛は宮ノ洲惣代であることから、この芝居興行は町民の要望を代表したものであろう。この芝居は円滑に許可されているから、これまでに下松町でこのような芝居を興行した前例があるのかも知れない。開催期日の日和一〇日間というのは、雨天があればそれだけ延引するということである。この芝居の座元である広島子供芸妓芝居という座はよく分からないが、若い芸妓による女歌舞伎ではないだろうか。娯楽の少ない当時、このような女歌舞伎の興行は、多くの見物人を集めたことに違いない。