(一) 広さ一町三反五畝一〇歩の塩田(松本浜)がある。
(二) この塩田の持主は西豊井村の直吉である。
(三) この塩田沖に新しく新塩田が開発された。
(四) このため旧塩田の塩付きが悪くなり、できた塩も黒塩で売れなくなった。
(五) そこで直吉が塩田を田地に変換したいと申し出た。
(六) 藩としては、直吉の塩田全部が田地となると新塩田の塩付き悪くなる。そこで直吉の塩田半分を田地に、沖に近い半分を畠地に変換することを認める。
(七) 変換後の年貢高は一六石九斗九升とする。
右のように、沖へ新塩田が開発造成されると、旧塩田では塩付きが悪くなり、塩が取れなくなる。そこで、旧塩田主は田成りを申し出て地目変換を行い、田畠に変えることになる。しかし、旧塩田が田畠に変わると、新塩田にもその影響がすぐさま現れることになる。それは、新塩田に水分が多くなり、塩田としての機能が低下するためである。
旧塩田持主の直吉が塩浜の田成願を提出すると、少し遅れて新塩田の持主西豊井村畔頭宇兵衛組の喜重屋忠左衛門が、藩府へ堀川掘削願を提出した。喜重屋忠左衛門は、旧塩田が田畠化した時の悪影響を考慮し、旧塩田と新塩田の間に堀川を掘り、水分の浸入を防止しようとしたのである。
同年六月、喜重屋忠左衛門の堀川掘削申請は許可され、堀川を造ることができるようになった。この喜重屋忠左衛門は一八二九年(文政十二)から塩田開発を手がけ、ここ一〇年間に西豊井村の海岸に次々と新塩田を造成した人物であった。したがって、東豊井村の宮洲屋幸吉、西豊井村の喜重屋忠左衛門ともいうべき、東西の塩田地主として並び称される人物であったと考えられる。
一八三九年八月、喜重屋忠左衛門の所有する塩田名の分る史料があるので記載する。
覚
西豊井村畔頭宇平組
喜重屋忠左衛門
一東開作 塩浜畠壱町一反七畝十弐歩
一同所 溝地畠六畝四歩
一同所 釜屋地畠四畝三歩
一同所 畠壱畝弐十九歩
一右開作付 塩浜畠三畝三歩
一同所 溝地畠五歩
一中開作 塩浜畠壱町壱反六畝壱歩
一同所 溝地畠五畝十二歩
一同所 釜屋地畠八畝壱歩
一西開作 塩浜畠九反八畝弐十歩
一同所 溝地畠五畝六歩
一同所 釜屋地畠四畝弐十弐歩
一東土手根 畠壱畝九歩
一北古土手戻り 畠六畝七歩
(中略)
天保十年八月九日 御蔵本
御代官所 (「大令録」六四)
西豊井村畔頭宇平組
喜重屋忠左衛門
一東開作 塩浜畠壱町一反七畝十弐歩
一同所 溝地畠六畝四歩
一同所 釜屋地畠四畝三歩
一同所 畠壱畝弐十九歩
一右開作付 塩浜畠三畝三歩
一同所 溝地畠五歩
一中開作 塩浜畠壱町壱反六畝壱歩
一同所 溝地畠五畝十二歩
一同所 釜屋地畠八畝壱歩
一西開作 塩浜畠九反八畝弐十歩
一同所 溝地畠五畝六歩
一同所 釜屋地畠四畝弐十弐歩
一東土手根 畠壱畝九歩
一北古土手戻り 畠六畝七歩
(中略)
天保十年八月九日 御蔵本
御代官所 (「大令録」六四)
これらの土地の総合計は、三町七段八畝一二歩となる。塩田としては、かなり広い面積を占めているといえよう。地名をみると東開作・中開作・西開作とあり、それぞれに一町以上の塩田が形成されている。
沖合いへの塩田造成によって、西豊井村の海岸は沖へ沖へと移動し、そこへ新しい塩田が広がっていった。このことは、東豊井村の海岸も同様であったとみられる。両豊井村の海岸は、喜重屋忠左衛門のような塩田地主によって、次々に埋め立てられて姿をかえていったのである。