両豊井村の海岸が埋め立てられ、塩田に姿を変えていったことはこれまでに述べてきたとおりである。このためか、下松浦は年ごとに不漁が続いていた。しかし、一八三九年(天保十)はめずらしく豊漁であった。そのため同年十月、下松浦網方の者と世話人一同は、徳山藩府へ銀三枚を上納し、それにより神社へ豊漁御礼の子供角力興行を願い出た。角力興行の主催者が網方とあることからみて、豊漁の原因の魚は鰯ではないだろうか。
これに対し、徳山藩府は直ちに許可を与えた。豊漁の御礼として、氏神へ子供角力を奉納するというのであるから、藩府側も不許可とする理由はなかったのであろう。しかし、この角力は願出通り、氏子内の子供角力であったのであろうか。子供角力を五日間も興行するというのは、いくら豊漁の奉納角力とはいえ少し期間が長すぎる。したがって、表向きは子供角力であっても、その実は当時各地にいた半専門的な力士による角力興行であったとも考えられる。