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刻煙草窮方の存続

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 このころは煙草といえは刻煙草であった。下松町では、この煙草を商う商人が三人いた。しかし、一八三八年(天保九)から煙草船が下松に入港しなくなったので、三商人はあわてて翌三九年十二月歎願書を藩府へ提出したが、その大意はつぎのようなことである。
(一) 天保九年から煙草船が下松に入港しなくなった。
(二) その理由は富田新町へ窮方(検査所か)が移転したためである。
(三) 下松は四方が他領であり、商売のむつかしいところでもあり、ぜひ従前通り窮方を再設置し、煙草商売が存続できるように措置してほしい。
 徳山藩府はこの歎願を受け入れたので、再び下松町へも煙草船が入港することになった。この徳山藩の措置から読みとれることは、徳山藩府の狡智な増収策である。徳山藩は城下町徳山を中心に、東に下松町、西に富田町と二つの港町をもっていた。この東西の港町に対し、利権(この場合は窮所)を移動させることによって商人を競合させ、その競争力によって商売の活性化を図ったのではあるまいか。商売が繁昌すれば、運上銀をきっちり取り立てることができるからであろう。

煙草船に付歎願書