(一) 天保九年から煙草船が下松に入港しなくなった。
(二) その理由は富田新町へ窮方(検査所か)が移転したためである。
(三) 下松は四方が他領であり、商売のむつかしいところでもあり、ぜひ従前通り窮方を再設置し、煙草商売が存続できるように措置してほしい。
徳山藩府はこの歎願を受け入れたので、再び下松町へも煙草船が入港することになった。この徳山藩の措置から読みとれることは、徳山藩府の狡智な増収策である。徳山藩は城下町徳山を中心に、東に下松町、西に富田町と二つの港町をもっていた。この東西の港町に対し、利権(この場合は窮所)を移動させることによって商人を競合させ、その競争力によって商売の活性化を図ったのではあるまいか。商売が繁昌すれば、運上銀をきっちり取り立てることができるからであろう。
煙草船に付歎願書