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綿屋株仲間

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 この当時(幕末期)めざましく発展した産業の一つに木綿織物産業がある。『風土注進案』によると、末武上村では木綿二八七〇反を織り出しているが、これは同村の戸数三三三戸のうち八五パーセントの二八七戸の家で、女子の手仕事として織り出したものである。徳山藩領の村々の木綿織については、本藩のような調査が行われていないので不明であるが、事情は末武上村と同様であったと考えられる。
 このような木綿織は、綿屋が織機と木綿を農家に貸し出して織らせているもので、綿屋あっての木綿織物ということができる。一八四〇年(天保十一)十一月、下松町には二一人の綿屋があり、藩府の指示によって綿屋株仲間(藩府公認の独占的な同業組合)を結成していた。この株仲間の名前はつぎのとおりである。
 下松組  下松町  平野屋万次郎
           福田屋直吉
           堀屋勘助
           佐伯屋弥五郎
           米屋長右衛門
           古屋栄助
           川口屋新兵衛
           川口屋清助
           和泉屋藤吉
           鞆屋伝兵衛
           浜屋半右衛門
           柳屋幸左衛門
           柳屋栄蔵
           浜屋新兵衛
           原屋伴右衛門
           万力屋庄左衛門
           幸村屋藤吉
           幸村屋新之助
           竹屋茂七
           紀伊屋仁兵衛
           大黒屋庄次郎
   以上二十一人一組

 右二一人のなかで、下松町綿屋株仲間の頭取役を山田藤吉が命ぜられている。この藤吉は、幸村屋藤吉ではないかと推定されるが、はっきりと断定できる史料はない。株仲間は、徳山藩から交付される鑑札を保持して営業したが、鑑札と引替えに運上銀を上納しなければならなかった。このようなことのできる綿屋株仲間は、当時の商人仲間では利益の大きいエリート商人たちであった。

下松綿屋株仲間付立