このような木綿織は、綿屋が織機と木綿を農家に貸し出して織らせているもので、綿屋あっての木綿織物ということができる。一八四〇年(天保十一)十一月、下松町には二一人の綿屋があり、藩府の指示によって綿屋株仲間(藩府公認の独占的な同業組合)を結成していた。この株仲間の名前はつぎのとおりである。
下松組 下松町 平野屋万次郎
福田屋直吉
堀屋勘助
佐伯屋弥五郎
米屋長右衛門
古屋栄助
川口屋新兵衛
川口屋清助
和泉屋藤吉
鞆屋伝兵衛
浜屋半右衛門
柳屋幸左衛門
柳屋栄蔵
浜屋新兵衛
原屋伴右衛門
万力屋庄左衛門
幸村屋藤吉
幸村屋新之助
竹屋茂七
紀伊屋仁兵衛
大黒屋庄次郎
以上二十一人一組
福田屋直吉
堀屋勘助
佐伯屋弥五郎
米屋長右衛門
古屋栄助
川口屋新兵衛
川口屋清助
和泉屋藤吉
鞆屋伝兵衛
浜屋半右衛門
柳屋幸左衛門
柳屋栄蔵
浜屋新兵衛
原屋伴右衛門
万力屋庄左衛門
幸村屋藤吉
幸村屋新之助
竹屋茂七
紀伊屋仁兵衛
大黒屋庄次郎
以上二十一人一組
右二一人のなかで、下松町綿屋株仲間の頭取役を山田藤吉が命ぜられている。この藤吉は、幸村屋藤吉ではないかと推定されるが、はっきりと断定できる史料はない。株仲間は、徳山藩から交付される鑑札を保持して営業したが、鑑札と引替えに運上銀を上納しなければならなかった。このようなことのできる綿屋株仲間は、当時の商人仲間では利益の大きいエリート商人たちであった。
下松綿屋株仲間付立