幕末期になると、幕府も諸大名も財政が苦しくなり、財政改革が必要となる。萩本藩も徳山藩も、このことはまったく同様で財政は悪化の一途をたどっていた。一八四〇年(天保十一)、本藩においては村田清風の流弊改正と称される藩政改革が実施された。徳山藩でも同年十一月、藩主からつぎのような仕組立(財政再建)に関する「御意」が公布された。
御意
従来世帯向差閊ニ付、多年打続馳走米請之倹約筋も無疎事ニ候得共、近来別て雖欠費用差湊、地江戸共古来無之借財相嵩、於于今は公務も難相成程儀ニ候、依ては家中も困究之趣相聞、甚以心外之至候得共、無是非当子より五ケ年間、非常之仕組申付、改て重キ馳走米請乞候、於下も破格之遂省略、取続奉公仕ニ於ては可為祝着候、委細之義ハ家老共より可申聞候条、面々可得其意候、以上
天保十一年庚子十一月朔日
右の「御意」は、徳山藩主が下したものである。この大意はつぎのとおり。
(一) かねてから藩財政は苦しく、かなり長い間馳走米(家来かの上納米)を納めてもらった。
(二) そのためもあって藩府は抜目なく倹約に努めた。
(三) しかし、最近になって、昔はみられなかった藩の借財なるものが増加した。
(四) このままでは公務(幕府に対する勤め)もままならない。
(五) 家中の者が困っていることは知っており心苦しいが、仕方なく今年から五年間ほど「非常の仕組」(藩財政再建)を申し付ける。
(六) そこで重い馳走米を納めてもらうことにする。
(七) 今後はこれまでにないほどの省略(倹約に努めること)で無事奉公するように。
(八) 重い馳走の詳細は家老から伝えるので、一人一人がよく心得るようにせよ。
これでみると、徳山藩としては藩財政再建のため、家来から高石の御馳走米を徴収しなければ、財政危機を乗り切ることができなかったことが分かる。そのため、右のように五カ年にわたる非常徴収米の制度を公布したのであった。その徴収率は以下のとおりで家老から示された。
高七十石以上 百石ニ付 米八石
高二十石以上 十石ニ付 米七斗
高十一石以上 一石ニ付 米六斗
高十石以下 一石ニ付 米三斗五升
右の率から、手取り七〇石以上の者は二九パーセント課税、二〇石以上は九パーセント、一一石以上は七パーセント、一〇石以下は三パーセントであった。こうしてみると、高禄の者に対しては税負担率が高く、低い禄高の者には税率が低い、いわゆる累進課税であったことが分かる。