これらのことは、前述の「両豊井村入会山」で述べたと同じ事情、すなわち河内・山田村の入会山は、徳山藩御立山に編入され、そこに松の幼木を植樹したことを意味するであろう。一八四一年(天保十二)五月、徳山藩府は河内・山田両村百姓中に対し、大意左のような通達を出した。
(一) 両村の者は、洲通山をかねてから入会山としている。
(二) ところが同所の松が成長してきた。
(三) そこで松木取調べのため立入禁止とする。
このように、入会山への入山が禁止されると、両村の農民にとり、この措置は飼料・肥料としての草を刈り取ることができなくなり、農業経営に支障が生ずる。そこで当然の要求として代替地の要望が出された。徳山藩府はこの要望をきき入れ、翌六月河内村に対して、河内村杉ケ谷と駒ケ迫の二カ所を入会山として認めた。さらに、山田村には河内村の大峪と表千石の二カ所を認めたが、同所には河内村の入会権をも認めた。
しかし、新入会山を認めるに当たって、徳山藩府は一つの条件をつけた。それは入会山一畝について松苗三〇本を植えることであった。そうして、植樹後の草刈りにさいし、松の幼木を刈り取らないように厳重な注意を与え、もし刈り取ったり枯らしたりした場合は、補植することを義務づけた。
この徳山藩府の施行した新御立山方式は、藩府にとってはまことに都合のよい政策で、農民にとっては新たな負担をかかえることになった。なぜなら、これまでの入会山は農民の共有私有地として認められていたが、それが御立山に編入されることによって共有権は否定され、代替地では松木育成の負担が新たに加わったからである。このことは、後述の河内村・山田村騒動と関連があると考えられ、一般農民が村役人に不信を抱く原因となったと推察される。
河内地区洲通山