徳山藩領内を通っている往還道の修理は、それぞれの村が村負担で補修を行っていた。しかし、山陽道のような主要街道は、宰判や支藩が公経費を支出していたのであった。村負担の場合、村で米銭を徴収して修理するのが通常であるが、それができぬ場合は村の有志(富裕者)によって修復されることもあった。
一八四九年(天保十)東豊井村の橋本文左衛門は、下松から海岸ぞいに東へ向う道の難所、魚ケ縁の修復を藩に申し出て許可を得た。この修復工事は五か年計画で、経費一切は橋本文左衛門の個人負担であった。この工事が無事成就の時は、文左衛門にはその功労により身柄一代庄屋格とすることが許されることになっていた。このような普請を、身柄受普請という。
ところが四一年(天保十二)の夏、大雨と高波が魚ケ縁の修復中の道路をおそい、往還道は大破した。このような身柄受普請の場合、藩府は普請者に対して保障する責務はない。とはいうものの天災による被害であり、それではあまりにも気の毒であるということで、徳山藩府は文左衛門に対し、同年六月に米七石五斗を夫飯米として給付した。そうして、海に面する海岸に、石組みで堅固な道とするよう注文をつけている。