徳山藩領内河内村は、切戸川にそった村であり、川に添って田地が開けていたので、田地のそばには農民持ちの山があった。この山の材木を、農民一九人が藩の許可を得て一八四一年(天保十二)十月に売り払っている。その時の徳山藩許可書には、大要つぎのように書かれている。
(一) 河内村山持百姓一九人が年貢を未納し、その代金として持山の樹木を売払うことにした。
(二) そこで藩府で検分し、未納分を上納することを条件に、伐採し売り払いを許可する。
(三) 伐採については村役人の指示に従い、運送については庄屋の送り状を所持すること。
右の許可書から、①河内村には山持ちの百姓一九人がいたこと、②年貢を未納したのでその代金として山の木(松木)を売ることにしたこと、③百姓持山の木を売る場合でも、藩府の許可が必要なこと、④藩府は木材の売方にさいし、運上銀を課すことができること、⑤藩府は伐採にさいし、山林維持のため条件をつけることができること、が知られる。
このようにみてくると、百姓持山といっても百姓が勝手に処分することはできず、藩府の管理下におかれていることがよく分かる。ここで売り払った木は松木だけである。このことから、松以外の雑木を売るさいは、藩の許可は不要だったのではあるまいか。
この許可から一カ月後の十一月十一日、河内村山持ちは山地九四町余を売り払い、銀一貫二五八匁を運上銀として藩府へ納入している。この運上銀は半代銀といって、売上げの半分を納入するものであった。