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河内村の御預り山

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 右にみてきたのは個人引受けの御預り山であったが、村引受けの御預り山も出現した。これまでみてきたように、村の入会山を藩は御立山として松苗を植え、その保護のために下草刈場を農民に認めたのであった。しかし、これでは松苗の管理責任は藩にあって、農民にはなかった。そこで藩府は、農民に管理責任をもたせる御預け山方式をとることにした。藩府の御立山を農民に預けて、農民に管理を一任する方式である。
 一八四一年(天保十二)十二月、徳山藩府は大要つぎのような通達を河内村・山田村・生野屋村宛に出している。
(一) 河内村・山田村・生野屋村の三カ村へ、河内村の濃路・洲通両所の御立山を、地下役人の引請けで御預山とする。
(二) 松苗は一畝に三〇本の割合で植樹のこと。
(三) 濃路御立山東方は生野屋村へ預ける。
(四) 濃路御立山雲端から東、石ケ迫全部、洲通御立山の西方は河内村へ預ける。
(五) 濃路御立山の杉ケ浴、頭ケ迫は山田村へ預ける。
(六) 松苗が成長するよう配慮のこと。
 右のように、藩府は、三カ村の村役人の引請けで、御立山を預けることにした。松木は一畝に三〇本植え付け、それさえ無事に成長するなら、管理権はすべて村役人の手にまかされることにしたのである。したがって、下草刈りなどは村役人の自主管理によって運営されることになり、村役人の責任が強まるとともに、村における権限も強くなったといえる。