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小社小庵の解除

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 藩政時代を通して、小社・小庵は増加の一途をたどった。これは、その時々の流行の神があってそれを祀ったことや、富裕者が施行して有名寺社に参詣しそれを勧請して祀ったためである。本藩ではこのころ天保改革の一環として淫祠解除を命じているが(本章、3節)、徳山藩でも御仕組立の一環として、小社・小庵の解除を一八四二年(天保十三)六月に命じている。この通達書の大要はつぎのとおりである。
(一) 領内にある森(信仰の対象)・小社・墓所・辻堂類はすべて、宝暦十二年(一七六二)に改方(寺社台帳への登録)を実施した。
(二) その後文化五年(一八〇八)に再調査を行った。
(三) しかし近年になり、小社などが増大している。
(四) そこで宝暦時の姿に戻すよう命ずる。また、新しい樹木を伐採せよ。
(五) 右のことが実行されたかどうか、役人を巡回させて調査する。
 この通達書は、小社・小庵の解除を命じたものである。文中には、「敷地の増大を禁止する」とあり、小社・小庵の解除とはいっていない。しかし、新しく勧請して祀られた社寺は、古くからの社寺の近辺に祀られるのが通例であったから、「宝暦時の姿にせよ」ということは、新しく祀った社寺を取り壊せと命じているのである。また古くから認められている神社境内にある「新しい樹木を伐採せよ」とも命じているが、これはそこに新しく小社・小庵が建てられ、新しい樹木が植えられているからである。藩府としては、藩の許可した寺社以外には、信仰の自由を認めず、新規のものは一切取払うことを命じている。
 もしかりに、新しい小社・小庵を藩府が認めると、農民たちはそれらの寺社へ米銀を寄進をする。社寺は、経済的にみれば寄進によって成立するものであるから、藩府の増徴政策はそれだけ徴収困難となる。藩政改革の増徴策として、小祀・小庵の解除は、藩府として実行しなければならぬ藩財政確保のための政策の一つであった。
 なお、この通達にみられるように、徳山藩において一七六二年(宝暦十二)に寺社の根帳登録制度が確立したこと、さらに一八〇七年(文化五)に再調査が実施されたことは、注目してよい事項である。