下松町は海岸を埋め立て、海側へと市街地を拡大してきた。一八四三年(天保十四)三月町役人三名が連名で埋立工事願を提出したが、これに対して藩府は大意つぎのような許可を与えている。
(一) 下松町役人藤田源右衛門・下瀬吉左衛門・山口藤吉の三人が、下松町屋敷尻の入川の内に新地を築出したいと願い出た。
(二) 築造の経費は三人の自己負担である。
(三) 新地を築出しすれば、これまでのように川浚いをする必要がないという(川底の土砂で築造するため)。
(四) 船の出入りも便利となる(掘浚により水深が深くなる)。
(五) 藩として検討した結果、許可することにしたが、新地には課税する。
右のことから、町役人三人が下松町屋敷裏手の入川に、新地造成を願い出たことが分かる。この新地は、入川の底土を掘り上げて造成するから、船通りもよくなり町発展に寄与すると述べている。藩府としては、町屋敷地が拡大し、その経費は町役人の自費であるから、一も二もなく承認したことであろう。こうして、新地を造成した三人は、築造後は新地の地主となることができるため、かなりの経費を要するこの工事に、思い切って資金を投入したのであった。