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浅江村百姓入込騒動

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 東豊井村の東は浅江村であり、浅江村は本藩領熊毛宰判に属していた。この浅江村の農民が、東豊井村に侵入して下草刈りをするという事件が発生した。この事件は一八四三年(天保十四)六月であり、事件の処理に手落ちがあった東豊井村の庄屋は処罰されている。この事件に関する徳山藩府の通達書の大要は、つぎのとおりであった。
(一) 東豊井村庄屋武居七郎左衛門に対し、庄屋役を罷免し逼塞を申し付ける。
(二) その理由は萩領浅江村百姓が多人数で孕岩御立山(東豊井村と浅江村境の山)へ入込み下草刈りをしたことによる。
(三) そのとき、入込者の草籠や鎌を押収し、預り書を浅江村の庄屋へ送った。
(四) この預り書がもとで争論が発生した。
(五) 庄屋としては預り書を発送する権限はなく、ただちに藩府へ報告すべきである。
(六) 事件を紛糾させたことによって、前記の罪を申し渡す。
 右にみるように、浅江村農民が東豊井村に侵入して下草刈りをしたことが、この騒動の発端である。しかし、東豊井村に理由もなく浅江村農民が多人数侵入したとは考えられないから、古くから入会慣行があったのかもしれない。この侵入者に対し、東豊井村の農民がそれをなじり、証拠品として草籠や鎌を押収したことはありうることである。しかしながら、庄屋武居七郎左衛門はその後の措置を誤ったのである。事件をただちに藩府へ届ければよかったのに、浅江村庄屋へ預り書を送って直接交渉したのである。七郎左衛門としては、内々穏便に処置しようとしたのかもしれないが、表沙汰になれば事は重大である。結果的には武居七郎左衛門は庄屋を罷免され、逼塞処分を受けることになった。彼のとった措置は、庄屋役としては許されない越権行為であったからである。
 しかし、よく考えてみると、七郎左衛門に罪はまったくないのである。事件は浅江村の農民が不法侵入して草刈りをしたことにあり、それを内々穏便に処置しようと努力したのが七郎左衛門である。だが、この内々の措置が法にふれる結果となった。七郎左衛門にとって、まことに残念な結果となったのである。

下松市と光市境(左山下松市、右山光市)