内山市左衛門は、同村の百姓の生活が苦しく、このまま推移すれば村の百姓のうちから、田畠を捨てて逃亡する者が出ることを心配した。そこで苦しい家計のなかから米二〇俵を村へ献納し、この米で困窮百姓を救ってほしいと藩府へ申し出た。徳山藩はこの市左衛門の奇特な行為を受け入れ、さっそく困窮者にこの米を配分することにした。当時、温見村などの山村は、それまで村の主要産業であった紙漉きが不振となり、産業の転換期であった。このため、村内には生活困窮者が多かった。この畔頭内山市左衛門は、かなりの田地を所持していたためでもあろうか、少しは生活に余裕があり、このような義挙に及んだのではないだろうか。
現在の温見地区