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温見村の困窮

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 温見村は、市域内徳山藩領内ではもっとも奥深いところに位置する山村である。天保期(一八三〇年~四三年)には、この温見村の農民の生活は困窮をきわめていたことが、一八四三年(天保十四)二月の同村畔頭内山市左衛門の献金でよく分かる。
 内山市左衛門は、同村の百姓の生活が苦しく、このまま推移すれば村の百姓のうちから、田畠を捨てて逃亡する者が出ることを心配した。そこで苦しい家計のなかから米二〇俵を村へ献納し、この米で困窮百姓を救ってほしいと藩府へ申し出た。徳山藩はこの市左衛門の奇特な行為を受け入れ、さっそく困窮者にこの米を配分することにした。当時、温見村などの山村は、それまで村の主要産業であった紙漉きが不振となり、産業の転換期であった。このため、村内には生活困窮者が多かった。この畔頭内山市左衛門は、かなりの田地を所持していたためでもあろうか、少しは生活に余裕があり、このような義挙に及んだのではないだろうか。

現在の温見地区