ビューア該当ページ

長寿者への褒賞

539 ~ 541 / 1124ページ
 幕末期のこの時代は、長寿を全うする者はまれであった。しかし、だからといって、村に長寿者がいなかったわけではない。徳山藩では一八四七年(弘化四)四月、長寿者の褒賞を行っている。これは珍しい記録と考えられるので、村ごとにまとめ、紹介する。
<東豊井村>
(畔頭六太郎組)
八四歳文七八五歳権七
八〇〃熊蔵八一〃佐兵衛
八五〃浅右衛門八〇〃武吉
(畔頭与平組)
八三歳与三八八一歳庄七
八〇〃武左衛門八一〃菊右衛門
八七〃滝蔵母八七〃忠三郎母
八四〃長吉母九〇〃勘七祖母
<西豊井村>
(東組)
八五歳文蔵
(中組)
八三歳竹松八一歳卯平母
(西組)
八〇歳七左衛門八二歳繁右衛門
八一歳又五郎八一歳又五郎妻
八二〃滝蔵祖母
<河内村>
(畔頭亀之丞組)
九一歳鉄蔵母八一歳善五郎
(畔頭治兵衛組)
八八歳利助八八歳孫七
八四〃園右衛門母八三〃甚七母
八一〃源右衛門母八一〃甚助母
八一〃二郎右衛門母
(畔頭高村友七組)
八二歳従左衛門八一歳文左衛門母
八一〃与市母八〇〃幸助
<山田村>
(畔頭弥三郎組)
八〇歳政吉母八一歳文七母
(畔頭伊平組)
八八歳孫左衛門八二歳太郎左衛門母
八〇〃仁左衛門八二〃亀松母
八〇〃権蔵
<生野屋村>
(畔頭鹿市組)
八六歳仁左衛門八一歳七右衛門母
八〇〃平兵衛母八〇〃亀松母
(畔頭忠吉組)
八一歳善吉
(畔頭周吉組)
八一歳 堀右衛門八〇歳与左衛門
<来巻村>
(畔頭藤左衛門組)
八一歳新次郎八二歳平右衛門母
八一〃文右衛門
(畔頭伝左衛門組)
八二歳小四郎八一歳源左衛門母
八〇〃治右衛門
<瀬戸村>
(畔頭茂左衛門組)
八〇歳豊次郎父八〇歳寅吉父
八〇〃寅吉母八〇〃陸助父
八〇〃作次郎父八三〃太郎右衛門父
八〇〃太郎右衛門母
(手組)
九一歳儀三郎母八九歳会三郎母
八一〃好左衛門父八〇〃好左衛門母
<温見村>
八〇歳田村勘兵衛祖父
(畔頭内山市左衛門組)
八二歳七左衛門母八四歳源心母
<大藤谷村>
(畔頭幸助組)
八七歳周吉祖母八七歳三吉父
八〇〃紋十郎母
(畔頭寅之進組)
八〇歳才吉母

 右にみるとおり、徳山藩領内村々の八〇歳以上の長寿者は七三名であった。徳山藩は、長寿の祝酒代として、同月各人へ銭二〇〇文を贈っている。この当時の社会は、早死者が多かったとはいうものの、このように長寿者は各村に数名以上も存在し、藩から長寿を祝ってもらうことができたのである。
 長寿者書出しを、年齢別にまとめるとつぎのとおりである。
表6 長寿者年齢一覧表
年齢
8015823
8191019
82257
83415
84134
85303
86101
87134
88303
8911
9011
9122
393473

 この表でみると、八〇歳以上の長寿者は、全体として男性が多い。しかし高齢になるに従って女性が多くなる。最高齢の九一歳の二人は、ともに女性であった。
 この後、一八五一年(嘉永四)に、河内村の鉄蔵の母は一〇〇歳となった。それを祝し、徳山藩府はつぎのような褒賞を行っている。
   覚
    河内村畔頭仙吉組 鉄蔵母
右之者百歳相成候趣ニ相聞、稀之長寿ニ付、生涯壱人扶持被下候条、此上家内之者共気を付養育可仕候事、
 嘉永四年辛亥正月晦日
 鉄蔵の母は一〇〇歳となったので、藩府からそのお祝いとして、一人扶持が給付されたのである。一人扶持は一日五合、一年で一石八斗が支給されたのであった。