一八五〇年(嘉永三)という年は、多くの庄屋の不正が発覚し、それに伴って村騒動が起きた年であった。これを、処罰された順に記すとつぎのとおりになる。
二月二十五日 生野屋村庄屋清木善兵衛が、内証貫(つなぎ)(藩府の許可なく集金すること)の罪で身分剝奪の上野島へ流罪となる。また同罪により同村畔頭一人は逼塞となる。
三月十日 西豊井村庄屋岩本庄左衛門が、凶作拝借米不正使用の罪により、身分剝奪のうえ、村追放となる。
三月十日 河内村庄屋清木源左衛門が、不熟田検見に際して台帳改竄(ざん)の罪により、身分剝奪のうえ入牢となる。また同罪により同村畔頭二人も入牢となる。
四月十四日 瀬戸村庄屋石津忠右衛門が、不正の検見を願い出た罪により、身分剝奪の上入牢となる。また同罪により同人息子も入牢となる。
五月十三日 山田村庄屋温見良左衛門が、宗門究の費用を二重貫(同じ税を二度徴収すること)の罪により、逼塞となる。また同罪により同村農民一人も逼塞となる。
右のように、五カ村の庄屋の不正があいついで発覚し、藩府による厳しい処分がなされた。このうち、河内村と山田村では、庄屋の不正を糾弾するため多くの農民が庄屋へ押しかけ、村騒動が起きている。
河内村では、四九年(嘉永二)十二月十五日、佐七という農民が主謀者となって、七次郎・鶴松という二人と相談した。相談内容は庄屋が小貫(村税)を十カ年も余分に徴収していることを問い糾すというものであった。あわせて検見の不正をも追究することとし、翌十六日夜に庄屋宅へ村民を集合させることにした。こうして十六日夜、庄屋宅で騒動が発生したが、騒動の具体的な内容はよく分からない。この騒動の結果、五一年六月十三日藩府から騒動の主謀者二人を村から追放、七人の者に逼塞が命ぜられた。
また、山田村では、五一年六月九日、栄蔵・助右衛門の二人が主謀者となって、多人数を集めて騒動を起こした。この騒動の具体的なことについてはよく分からないが、同月二十七日徳山藩府は両名に逼塞を命じている。さらに藩府は、山田村の百姓中に対して、本来なら処罰すべきことではあるが、格別の恩恵で罪を問わないことにするとの通達を出している。このように、幕末期の山村では不安な世情を反映し、多くの騒動が発生したが、その実体はよくは分からない。