同年六月、最初に編成された隊が高杉晋作を総督とする奇兵隊である。この隊に習い、この後、荻野隊・膺懲隊・遊撃軍など多くの隊が結成された。この有志隊は、隊員は武士だけではなく、百姓・町人などあらゆる職業・階層の人々も参加することが許され、国民軍としての性格をもつ新しい軍隊であった。そのため、庶民からの応募者も多く、藩内各地に諸隊の屯所がぞくぞく設置された。そこでは、洋式の団体行動を基本とする軍事教練が実施されていた。
この諸隊の一つに、第二奇兵隊がある。第二奇兵隊は別名を南奇兵隊といい、六五年(慶応元)正月、浦氏(知行地現柳井市伊保庄)の家臣白井小助により、浦氏の家臣を中核として結成された隊であった。同隊には、大島郡・熊毛郡・都濃郡(現市域内を含む)の農町民も参加していた。結成当初の定員は一二五名(後に増員)、熊毛郡の岩城山麓を屯所とした。この隊は、諸隊の中では比較的遅く結成された隊であった。
翌六六年四月四日、この隊で重大な事件が発生した。隊員の大多数(九十余人、又は百余人という)が、主謀者である立石孫一郎に率いられ、武器を携行して脱走したのである。脱走に際し、それを阻止しようとした書記楢崎剛十郎を殺害して逃走したのであった。
では、なぜこのような大事件が発生したのであろうか。これには、三つの原因が考えられる。第一は、この隊が浦氏(知行地上関宰判伊保庄)の家臣を中核に組織されていたため、浦家臣出身兵と農商出身兵との対立・不和が生じていたことである。第二は、当時の軍事情勢について、隊の指導者間に亀裂が生じていたことである。当時、長州藩は幕府と戦う覚悟で、広島において対幕府交渉を重ねていた。この交渉を、是とするか非とみるか、人により意見の分かれるところである。非とする隊内過激派は、もう交渉の余地はなく、戦いあるのみと考えていた。第三は、隊の指導者中に、超過激派の立石孫一郎がいたことである。
立石孫一郎は美作国津山藩の地主の息子で三三歳、倉敷で国学を学び、若くして尊攘運動に身を投じ、この時第二奇兵隊の士官となっていた。彼は、浦氏家臣兵に反感をもつ農商兵を扇動し、戦うことを山口の藩主に直接歎願しようと、党を結成して脱走したのである。したがって、この脱走は戦いを嫌って脱走したのではなく、討幕の起爆剤となるために脱走したのであった。
立石に率いられた脱走兵は、船に分乗して東上し、四月九日倉敷の幕府代官所を襲ってこれを焼打ちする。しかし、幕府方が大軍で脱走兵を包囲すると、全員が帰国して再起を期すことにした。帰国した立石たちは、浅江村の誓教寺へ同月二十五日にたてこもった。同寺において、立石は第二奇兵隊長の清水美作に部下の命乞いをしたが、藩府はこれを許さず、立石はだまされて島田橋近くで同志引頭兵吉とともに斬り殺された。
隊長を失った脱走兵は、この後は郷里や安全な場所を求めて四散した。藩府は、これら脱走兵は敵前逃亡であるとして逮捕し、斬罪処分とした。大島郡久賀村で四名、熊毛郡室津村で七名、同郡麻郷村で四名、同郡室積浦で一四名、都濃郡末武村宮原村(下松市域内)で六名、玖珂郡秋掛村で六名、佐波郡三田尻村で二名が斬罪となっている。また、一四、五歳の少年兵一〇名は自宅謹慎、このほか二六名が萩へ連行されている。これら脱走兵処罰者の合計は、主謀者二名の斬罪を含めて八一名であった。
この八一名のうち、下松市域内出身者は九名で、すべて市域内本藩領出身者であった。内訳は、下谷村一名、花岡村二名、末武村一名、末武中村一名、切山村三名、平田村一名である。年齢は一四歳から四七歳まで、一〇歳台のもの三名、二〇歳台のもの四名、四〇歳台のもの二名であった。出身階級は農民六名、僧三名であり、処罰は誅伐二名、萩連行四名、謹慎二名はともに一四、五歳の少年であった(『長州藩第二奇兵隊暴動史料集』)。この脱走兵の中に、浦氏の家臣名はない。このことからも、家臣兵に反感をもっていた農民兵を、過激派立石孫一郎が組織し、四境戦争の直前に暴発した事件が、この脱走事件であったといえよう。事件後同隊は膺懲隊と合併し、さらに健武隊へと改称、戊辰戦争で活躍する。
脱走者斬罪場(現在の市内宮原山附近)