ビューア該当ページ

山崎隊の結成

549 ~ 551 / 1124ページ
 一八六六年(慶応元)四月、徳山藩の家臣や農町民によって、山崎隊は結成された。前項にみた第二奇兵隊の結成より三カ月後のことであり、諸隊の中では遅く組織された隊である。このように、徳山藩での諸隊の組織化が遅れた原因は、徳山藩府内に保守派の力が強かったためといわれている。
 山崎隊の当初の定員は一五〇名であり、後増員されて二三〇名となった。同隊へ、下松市域内徳山領諸村から多くの農町民が参加した。「同隊人名録」(徳山市立図書館叢書16)によると、市域内出身隊員は五五名である。これを村別にまとめると、表1となる。
表1 出身村別表
村名人数
大藤谷村5
温見村8
瀬戸村3
山田村8
生野屋村5
河内村6
東豊井村1
西豊井村7
豊井村3
下松町7
上松浦2
55
表2 長男・次三男別表
人 員長 男次三男不 明
山 村3511199
市街地201271
5523266
表4 年齢別表
10代22
20代30
30代1
不明2
55
表3 出身階層表
農 民44
商 人8
神 職2
下 士1
55

 この表は、「出身村別表」である。これでみると、各村ともまんべんなく数名が入隊している。しかし、大藤谷村~河内村は山村であり、戸数・人口ともに少ない村である。これに比して、東西豊井村や下松町浦は戸数・人口ともに多い。この両者を比較すると、山村の三〇人に対して、海岸市街地は二〇人である。山村の農民が、尊王攘夷の思想に共鳴し、郷土防衛の意識が高かったため、このように多くの者が応募したのであろうか。どうも、そのようには考えられない。では、このことを表2で考えてみよう。
 表2は、山村と市街地出身兵の「長男と次三男別表」である。この表でみると、山村出身兵三五名中、長男は一一名で、次三男は一九名と倍近く多い。それに比して、下松町を中心とする市街地では、次三男より長男の方が五名も多い。このことは、山村の農家の次三男は、山村で暮していても将来への展望がないため、新しい軍隊に応募することにより、自分の将来を切り開こうとしたのではないだろうか。
 表3は、「出身階層表」である。ここにみるように、農民と商人が計五二人で九五パーセントに達し、圧倒的に多いことが分かる。神職の二人は山田村と生野屋村で、下士は河内村出身である。
 表4は、「年齢別表」である。最年少は一三歳の少年から、最高年齢は三〇歳であり、平均年齢は一九歳であった。
 以上が市域内出身兵の分析であるが、このことは山崎隊全員の傾向と合致するものと考えられる。
 この山崎隊は、一八六六年(慶応二)六月の四境戦争開始までは、徳山周辺の防衛に従事する。四境戦争が勃発すると、一中隊が芸州口の戦いに参加した。翌六七年には、一隊が占領地である小倉城の防衛に従事する。同年、本隊は京都に進駐し、翌六八年(明治元)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると、本隊はこの戦いに参加して戦功をあげた。さらに、同年九月戊辰戦争が始まると秋田攻撃に参加、別の一隊は青森へ転戦し、翌六九年の函館戦争で大変な苦戦をなめている。
 このように、山崎隊は四境戦争、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争と多くの戦いに参加した。そのため、隊員中で戦死者三名、病死・負傷者数名を出している。市域内出身者五五名のうち、この間に病死者一名を出した。また、隊規に違反した罪により、有罪処分になった者が一四名、戦場から帰還して精神に異常をきたした者が一名いる(「山崎隊人名録」)。