一八六九年(明治二)夏、戊辰戦争で勝利を得た長州藩諸隊士は、ぞくぞくと山口に凱旋した。諸隊士の中には、家庭の事情で直ちに自宅へ帰った者もいたが、多くは山口近辺の社寺に駐屯し、次の指令を待っていた。
七〇年正月、約二〇〇〇人の兵士が屯所を脱隊し、藩府に反抗するという騒動が発生した。これが世にいう「脱隊騒動」であり、明治初年から全国で始まる士族反乱騒動の始まりである。この脱隊兵は、農商出身者が多く、前年に定められた常備軍への編入がかなわないため、将来への展望を見失い、藩府に対して二つの理由から反抗したのである。この一つは常備軍への編入の不公平、いま一つは戊辰戦争恩賞の即刻支給の要求であった。脱隊兵は、この要求を藩主へ強要したのであった。
同年二月、徳山藩は領内諸村庄屋に宛て、脱隊騒動について大意次のような通達を発した。
(一) 軍政改革(常備軍編入)により、諸隊兵士が脱隊して宮市(現防府市)で騒ぎを起している。
(二) 本藩の両殿様も大いに心配され、軍功の賞典を分与されたが、騒動は静まらない。
(三) 脱隊の者たちは、戊辰戦争で勝利を得たなら、「田畠は作り取り」「御蔵の御米銀は皆下の自由」と考えていたようだが、これでは世の中は治るものではない。
(四) 世の中は「御上の御威光」により治るものであるから、村内の者たちへも、よくこの道理を説諭せよ。
(松村家文書「諸沙汰触控」)
右の通達は、脱隊騒動の性格を的確に伝えている。騒動の原因は、常備軍編入の不公平から発生した。身分制のない諸隊から、常備軍に編入された者は士族優先であって、平民は編入されなかったのである。そこで、農商出身の脱隊兵は、藩庁を封鎖し、藩主へ公平な編入と恩賞支給を要請したのである。
通達には、脱隊兵が「田畠は作り取り」「御蔵の御米銀は皆下の自由」と考えていたけれども、それでは世の中は治らないと述べている。しかし、庶民出身兵は「田畠は自分のもの」となり、「藩庫の財産は兵士たちに分配」と考えていたからこそ、新しい軍隊に志願し、新しい社会のために戦ったのであった。だが、勝利を得て復員してみると、功績は士族へ、農商兵は元の身分へ復帰しなければならなかったのである。
この脱隊兵に対する鎮圧軍は、木戸孝允の率いる常備軍と、岩国・徳山(山崎隊を含む)・豊浦の支藩軍などで組織された。七〇年二月、防府勝坂峠における両軍の激戦の結果鎮圧軍が勝利を得、藩府は脱隊兵主謀者九三名を処刑してこの騒動は鎮静する。
市域内においてはこの間、一月十七日には鎮圧軍移動への人夫として、河内村からは三〇人、生野屋村からも三〇人が動員されている。これは山口に向かう岩国兵のため、管内区間の荷物運搬に従事したのである。同二十五日には、河内村から九人が動員され、遊撃軍の人夫として同様の働きをした。さらに二月九日には、山田村から五九人、生野屋村から二六人、河内村から二二人、来巻村から二〇人、さらに馬七匹が動員され、遊撃軍の高森帰還のため荷物運搬人夫として働いている。遊撃軍は脱隊兵を討伐し勝利の帰還であったろうが、脱隊兵はこれまでの友軍であったのだから、重い足取りであったに違いない。
同年五月、徳山藩は次のような通達を領内庄屋へ出している。
其村々、先達て已来、降伏兵山口より身元引渡相成候節、帯刀渡方相成候哉取調、早々可被申出、為此申達候、以上
(民政局)兼崎寛九郎
村々庄屋中 (「松村家文書」)
右の通達は、脱隊兵で降伏した者を出身村へ引き渡した時、帯刀を渡したかどうかをいま一度確認し、その結果を徳山藩府へ報告するようにと述べている。脱隊兵を庄屋へ渡したとき、刀を返すことを藩府が忘れたためか、本藩から刀が徳山藩へ後送されてきたためかよく分からないが、ともかく本人へ刀を返すことをするための通達である。この通達にみられるように、市域内の村々にこの脱隊騒動に加わった兵士がいたに違いないが、その実数は不明である。