一八六九年(明治二)十月、本藩領花岡八幡宮別当職地蔵院から、次のような願書が庄屋から勘場へ提出された。
御願申上候事
今般従朝廷神仏混淆之儀御改、別当社僧還俗、神主社人等之称号ニ転職候様被仰出候ニ付奉得其旨候、身柄還俗仕、以神道致奉仕度奉存候、就ては拙僧事都野正記と改名仕度奉存候間、此段宜敷被成御沙汰可被下候、以上、
巳ノ十月 都濃郡華岡八幡宮別当職
御庄屋佐藤七之進殿 地蔵院
(「社寺改正録」県庁A)
右の願書は、花岡八幡宮の最高職である別当職の地蔵院が、僧侶から神主になるための願い出たものである。この大意は次のとおり。
(一) 朝廷から神仏分離が命ぜられ、別当(僧)は神主になれとのことである。
(二) そのため今後は神主として神社に奉仕する。
(三) ついては名前を都濃正記と改名したいので、どうか許可してほしい。
この別当地蔵院の願いは、同年十一月十五日藩府の許可するところとなった。
一八七〇年九月、徳山藩の神社改正方となった黒神直臣は、次のような案内状を領内六カ村庄屋・畔頭宛に発送した。
口演
河内村妙見社今般降松神社と御改号被仰付、御社頭引受取計拙者え被仰付候付、来ル十六日任常例、何風与も無之候得共麁茶進度候間、乍御苦労清木孫太郎方迄御出可被下候、右為御案内如是ニ御座候、以上、
(明治三)九月十二日 黒神
六ケ村御庄屋畔頭衆中 (「松村家文書」)
右の案内は、遠石八幡宮の大宮司であった黒神直臣が粗茶を差し上げたいので、六カ村の庄屋・畔頭に、清水孫太郎家(大庄屋か)へ集ってほしいと招待状を出したものである。彼がなぜこのような会合を開くかといえば、彼が徳山藩から神社改正方に任命されたからである。彼は神仏分離について、庄屋・畔頭に新政府の方針を正しく伝える必要があったからである。彼が直面している当面の事業は、神仏習合の妙見社を降松神社と名称を替え、神仏分離を実行することであった。この事業は、庄屋・畔頭の協力がなければ、実現のむつかしい難事業であった。そこで黒神直臣は、庄屋・畔頭を集め、神仏分離の趣旨を説明し、協力を要請したのである。彼は、神仏分離は妙見社だけではなく、総ての神社から仏教色を排除することであると力説したに違いない。
一八七三年(明治六)山口県内の神社に対し、一斉に社格の決定がなされた。これは明治政府の大教宣布(神道的国体樹立)の方針に従い、神社を官社と民社に大別し、官社は国が維持し、民社は地域民にその維持を委ねるというものであった。民社には府県・郷・村社の別があり、一村一社の原則で有格社の指定が行われた。そのため、地区や小字にある小さな神社は、有格社の末社として神社台帳に登録された。このような社格制度の実施は、神社を他宗教の上位に位置づけ、国による保護を強く打ち出した政策であった。
市域内神社で、有格社の指定を受けた神社は、表5のように六社あった。郷社の指定を受けた神社は二社で、花岡八幡宮と降松神社(旧妙見社)である。ともに創建は古く、氏子の崇敬の厚い神社であった。氏子数は花岡八幡宮は七六三戸、降松神社は一八八八戸である。村社は四社あり、いずれも村の氏神であった。切山八幡宮は氏子数一九九戸、松尾八幡宮は七七戸、笠戸神社は一三一戸、笠戸島八幡宮は一〇〇戸である(「神社明細帳」)。この氏子数の多少は、神社創建の年代とともに、社格決定の際の決定的要因と考えられる。
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表6は、各村における末社数を示したものである。これらの神社は、社格がないため無格社と呼ばれている。この表で気付くことは、河内村を中心に、山田村・生野屋村・東西豊井村に末社数の多いことである。これらの神社は、いずれも河内村の降松神社の末社であり、妙見信仰がこの地域に深く浸透していることを物語るものであろう。