江木次郎 慶応元・九・二四 代官→県令
笠原半九郎 明治二・十一・十六 都濃郡管事
田北太中 明治二・十二・二十七 〃
江木次郎 明治三・十二・二十八 都濃郡管事御用
右のように、名称が代官-県令-管事-管事御用と、毎年のように名称が変わっている。しかし名称は変わっても、職務内容は代官時代に変わりはなかった。
徳山藩では、一八七〇年(明治三)の七月と九月に、民事署の任免が発令されている。それをまとめると、表7となる。
表7 徳山藩民事署任免表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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この表にある民事東部庶務というのは、徳山藩東部代官であろう。これまでの代官兼崎寛九郎に代わり、七〇年に難波要之進が新たに任命されたのである。民事署というのは郡奉行所のことであり、これまでの福本三輪右衛門外三名に代わり、杉原与三太外二名が任命された。しかし、それから三カ月後に再び改変があり、郡奉行役であった林麓が依願免となり、江村能一郎がその後役に就任した。江村の役務は、町奉行と寺社奉行役も兼務し、民政全般にわたる総括責任者であった。難波要之進は、それまでの東部庶務から郡用処専勤となった。このことは、東部・西部に置かれていた代官役を一本化し、難波と長野を専勤としたが、役務に変化はなかった。
右にみてきたように、明治期に入ると代官という名は消えたものの、代官制度は存続したのである。しかし、一八七二年(明治五)四月、明治政府が「庄屋・名主・年寄を廃し、戸長・副戸長を置く」と布令し、庄屋制度が廃止されることになった。この庄屋制は、代官制度と表裏一体の関係で、庄屋制度は代官制の基盤であった。したがって、庄屋制の廃止で、その上に建てられた代官制や藩制が完全に崩壊することになった。この後の民政は、府県制という新しい制度のもとで、明治政府による中央集権制により、強力に押し進められることになった。