戸籍帳制度は、長州藩が他藩に先駈けて一七七九年(安永八)から実施していた制度である。明治政府には、長州藩出身者が多かったので、この長州藩で実施済みの制度を、全国で実施することにしたのである。この年作成された戸籍を、同年の干支にちなみ壬申戸籍という。この戸籍帳の記載内容は、長州藩で実施されていたものを、ほぼ完全に踏襲したものであった。そのため、四民平等の社会になったとはいうものの、士族・平民という身分差が記入されることになった。表8は、同年に調査された人口調査表のうち、市域内諸村分をまとめたものである。
この表8のAブロックは、市街地化した下松町を中心とした村々であり、Bブロックは山村の村々、C・Dブロックは平地の村々である(この村分けは原本どおり)。この表から気付いた点を二、三述べてみる。
表8 1872年戸籍総計 | (県庁A 総務517) |
村 名 | 戸数 | 家持 | 借家 | 神社 | 寺院 | 士族 | 同男 | 同女 | 僧侶 | 同男 | 同女 | |
A | 西豊井村 東豊井村 下松町 | 1,147 | 649 | 498 | 24 | 8 | 42 | 30 | 12 | 32 | 26 | 6 |
B | 来巻村、河内村 生野屋村、山田村 大藤谷村、温見村 瀬戸村、譲羽村 | 1,082 | 1,022 | 60 | 62 | 17 | 169 | 90 | 79 | 66 | 45 | 21 |
C | 末武上村 末武中村 末武下村 | 1,355 | 1,180 | 175 | 8 | 7 | 111 | 58 | 53 | 22 | 12 | 10 |
D | 平田村 櫛ケ浜村 久米村 | 1,059 | 865 | 194 | 6 | 8 | 53 | 24 | 29 | 45 | 26 | 19 |
村 名 | 平民 | 同男 | 同女 | 人口 総計 | 同男 | 同女 | 14歳 以下 | 15歳 以上 | 40歳 以上 | 80歳 以上 | |
A | 西豊井村 東豊井村 下松町 | 4,868 | 2,537 | 2,331 | 4,942 | 2,593 | 2,347 | 1,500 | 1,962 | 1,441 | 29 |
B | 来巻村、河内村 生野屋村、山田村 大藤谷村、温見村 瀬戸村、譲羽村 | 4,943 | 2,541 | 2,402 | 5,178 | 2,676 | 2,502 | 1,564 | 2,007 | 1,586 | 21 |
C | 末武上村 末武中村 末武下村 | 5,641 | 2,895 | 2,746 | 5,774 | 2,965 | 2,809 | 1,689 | 2,321 | 1,719 | 45 |
D | 平田村 櫛ケ浜村 久米村 | 4,736 | 2,464 | 2,272 | 4,834 | 2,514 | 2,320 | 1,521 | 1,945 | 1,349 | 19 |
第一に、戸数に関連し、家持ちと借家の区分のあることである。借家が圧倒的に多いのはAブロックで、Bブロックの八倍以上に達している。これは、市街地化しているところは、借家が一般的であることを物語っている。Aブロックは、全戸数の四三パーセントが借家であった。これに対し、Bブロックは山村地帯で、借家率はわずか四・二パーセントである。山村では、ほぼ全村民が自分の家に住んでいたのであった。C・Dの平場村ブロックは、AとBとの中間地帯であるといえよう。
第二に、社寺数がブロックにより違いのあることである。社寺の多いのはBブロックで、山村地区である。ここは七九社寺と大へん多く、平場村のCブロックの一五社寺、Dブロックの一四社寺の五倍以上である。この違いは、山村と平場海岸村の開発の違いからきていると考えられる。山村の開発は小規模開発が主体で、谷間ごとに小さな集落ができて氏神を祀る。そのため神社数が多くなる。これに対し、海岸村は大規模な海開作によって造成され、そこに神社を勧請して祀る。このため神社数は極めて少ない。この両者の開発の相違から、山村には神社が多くなり、海岸村には神社が少ないと考えられる。
第三に、この表に士族・僧・平民という階層表示はあるが、神官という階層が見当たらないことである。僧と神官はともに宗教に関係し同一階層と考えられるが、この表には神官名はない。これは神官がいなかったのではなく、神官は士族の中に教えられているからである。ここに、神社(神道)を国教としようとした明治政府の意図がはっきりと表明されている。神官は僧と同一ではなく、一級上の士族として取り扱われているのである。