明治政府は、七二年七月に地券制度の実施を公布した。これを受け、山口県では九月に「有税地調査例」を定め、県に地券掛を置いて地租改正を実施することにした。これによると、実施に際しては田畠の実地測量を行うことを定めている。しかし、本藩領内では宝暦検地が精密な測量を行っているので、実側は行わないこととし、支藩領内だけ実測を実施した。したがって、市域内では徳山領内だけ、田畠の測量が実施されたのである。
さらに、同年秋の米の収穫高を厳密に調査し、これを地価決定の基準値とした。翌七二年(明治六)六月、県は各村総代を県庁に召集して会議を開き、各村の意見をきいて各村収穫高の均衡を図った。こうして得た結果を地価とし、大蔵省へ報告した。
同年九月、大蔵省から監査官が来県し、吉敷郡嘉川村で収穫高の査定が行われた。これは、報告書の収穫が適切かどうかを、実地検査したのである。この査定の結果がよかったので、大蔵省の許可が与えられ、当県は全国で最初に地券を発行したのであった。
地券之證(下松市大海町東 古谷愛雄氏蔵)
この地券発行とともに、本来なら貢租は金納(地価の一〇〇分の二)とすることが決められていた。しかし、なにせ全国で最初に地租改正を実施したのであり、これまでの物納をすぐに金納に切り替えることは困難であった。そのため、貢租は従来どおりの物納とし、それを半官半民の協同会社が売却し、代金を県へ納めることにした。
このように、本県の地租改正は、県令中野梧一の強力な行政指導によって、困難さを克服しながら実施された。このため、七三年(明治六)の貢租金は、地租改正前の五カ年平均より、約二〇万円の減税をもたらしたといわれている(『山口県政史』上)。