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郡区町村編成法の施行

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 一八七八年(明治十一)七月、郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則の三法が公布され、これまでの大区小区制の矛盾点を改正して県・郡・町村の政治体制に編成された。郡長は官僚として位置づけられ、原則として町村一名の戸長は自治体の長と官僚の二面を有することになった。また戸長が数カ村を統轄し連合町村とすることも可能であったが、独立して旧町村が復活したものが多かった。翌七九年十月の県告示によると、下松地域の戸長名とその管掌地域は表10のとおりである。
表10 戸長管掌の村名と役場位置・戸長名
(1879年10月3日)
戸長管掌村名戸長役場位置戸長名
切山村・山田村・生野屋村山田村字濃地村松愷太郎
来巻村来巻村字友貞宮田嘉作
河内村河内村字中戸原弘中永一
東豊井村東豊井村字中豊井兼田幾次郎
西豊井村西豊井村字中市兼清金次郎
末武下村・笠戸島・平田村末武下村字大呑町内山吉太郎
末武中村末武中村字和田福原彦一
末武上村末武上村字上市原田清治
瀬戸村瀬戸村字鳴内藤惣橘
下谷村下谷村字高畑安田清右衛門
温見村・大藤谷村温見村字道谷田村蓑二
「戸長管掌村名其他告示」(山口県文書館蔵)による

 町村の連合独立は村内有力者の意見を聴取し、それをうけて郡長が答申し決定された。下松地域では一八七九年五月に各村から連合独立についての願書が出された。第七大区第九小区の譲羽村を含んだ五カ村連合から大藤谷村と温見村が連合して独立し、下谷村・瀬戸村はそれぞれ一村独立した。このとき第一〇小区の須々万本郷に入れられた下谷村の一部は下谷村に併合された。第二小区と第三小区の来巻村・河内村・東豊井村・西豊井村の四カ村は連合して西豊井村に戸長役場を置いた。そののち河内村・来巻村は連合して独立を願い出たが各村独立とされた。末武上村・末武中村はそれぞれ独立し、末武下村は平田村・笠戸島と連合した(「郡区戸長伺」山口県文書館蔵)。