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市町村制の施行

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 市町村制の実施は一八八九年(明治二十二)四月一日と定められて進められた。下松地域はとくに大きい問題はなかったが、末武上・中・下村三カ村合併して大村とする動きがあった。発端は八三年十二月、末武中村村会議員の建議により主唱され、他村議員を勧誘して同意させたものであり、経費負担上から連合して大村とするものであった(「郡区役所戸長役場廃設分合」山口県文書館蔵)。市町村制の施行にさいしてこの建議が再提出され、八八年十月になっても決着がみられなかった(「町村分合並財産処分上申」山口県文書館蔵)が、県は「区域広割ニ過キ、反テ不利益トナルヲ以テ願意ヲ採用セス」(「市町村制施行記事・町村合併上の異議」山口県文書館蔵)と否決し、願書は都濃郡長より却下された。町村合併は三〇〇戸以上を基本とし、土地の広狭・反別・財産の多少によって判定された。市町村制以前、県下の町村数は五九三カ村一〇二カ町二七カ島計七二二町村であった。都濃郡は五〇カ町村あったが、結局二二カ町村に合併再編された(「市町村制施行記事」表12)。下松地域は「従来戸長役場所轄区域ニシテ地形・民情等故障ナキニ付」(「市町村施行取調書」山口県文書館蔵)として従来の所轄がそのままとされた。新村の名称について、東西豊井村は県庁原案の「豊井村」に対し、八八年十月「下松村」として上申したが、県は旧名に復古する方針から「豊井村」と修正した原案を示し(「町村分合並財産処分上申」)、結局都濃郡長は「豊井村」と上申し、決定された(「市町村制施行記事」)。久保村についての県庁原案は「河内山村」であったが、郡長・戸長の意見を取り入れ、久保市の名をとって「久保村」とした。米川村の県庁原案は「戸見谷村」であった(「市町村制施行記事」)。この原案を受けて下谷村外三カ村は協議の結果、八八年八月二十九日付で四カ村合併して「米川村」と答申し決定された(「米川村庶務一件」)。末武南村・末武北村は末武庄名から南北に分けて呼称され、また小村・小島を含めて命名された(「市町村制施行取調書」)。

表12 各村分合の推移

 新村名と名称撰定事由はつぎのとおりであった(「明治二十二年市町村制施行取調書」)。
久保村(旧河内村・切山村・山田村・来巻村)
 事由…本区域内往古久保市ナルモノアリ、現今河内村地内ニ在リテ国道ニ沿ヒタル宿駅ニシテ一市街ヲナセリ、所謂著名ノ地名ナルカ故ニ其称ヲ取リ撰定ス
豊井村(旧東豊井村・西豊井村)
 事由…往古一村ニシテ豊井保ト称セリ、後世ニ至リ東西ヲ区別シテ二村ヲ置ク、故ニ今其古ニ復シ豊井ノ称ヲ以テ撰定ス
末武南村(旧末武下村・平田村・笠戸島)
 事由…往古末武庄ト謂ヒ、本所轄三ケ村末武上・中ノ両村トモ総テ一村タリ、而シテ本所轄地方ハ其南ニ位ス、故ニ此ノ称ヲ撰定ス
末武北村(旧末武上村・末武中村・生野屋村)
 事由…往古末武庄ト謂ヒ、末武上・中両村及末武下村・平田村・笠戸島トモ一村タリ、而シテ本所轄地方ハ其北ニ位ス、故ニ此ノ名称ヲ撰定ス
米川村(旧下谷村・瀬戸村・温見村・大藤谷村)
 事由…本区域ハ元組名ヲ付シ米川組ト称セシ事アリ、故ニ其組名ヲトリ撰定ス