政府は日露戦争遂行のため一九〇四年(明治三十七)二月国庫債券を募集した。各町村へ応募配当額が示され、各町村とも目標額の一・一倍から一・七倍の応募があった。この二カ月後に第二回目の募集が発表され、さらに計五回の債券募集となった。募集に対して各村の対応は種々であった。米川村は同村瀬戸の石灰肥料採取の山林一反歩余を売却して一・二回の国債購入資金とし、久保村は第一回募集の国債のうち八〇〇円を村基本財産へ繰り入れ、七六〇円は小学校基本財産へ編入し、その残余を村民へ売却した(「米川村・久保村村会会議録」)。日露戦争中は村内の小学校増改築や災害復旧工事等すべての事業は中止された。